しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

まわりくどき安息

 ワクチンを打たれに行った。

 半日経ったが副反応がほとんど出ていない。打たれた左肩に少し違和感が残って、多少あたまがぼーっとする程度。そしてちょっと眠たい。

 

 ワクチン接種の前に感染したらいやだなぁとおもっていた。

 当初、神戸市から届いた接種券では30代は7月中旬から予約開始と記されていたけれど、供給の乱れによって予定は大きくズレこんだ。このあいだ、待たされるのはなんともイヤな気分だった。ワクチン接種に順番があることは当然だし、感染するときはしょうがないという気持ちもあった。ただ、この中途半端に待たされているあいだに感染して重症化したら、なんだか恨めしいことだろうなぁと想像していた。つまりこの間に感染して悪化したら、政府やら自治体やら専門家やら、接種計画のずれ込みに責任があるはずだとぼやけた頭に浮かぶ対象を恨みながら生死の境をさまようことは確実だった。

 だれかを恨みながら苦しんで死ぬのと、「自分も他人もベストを尽くしたうえでの現状なのだから、ここから先はしょうがない」という気持ちを持って苦しんで死ぬのと、比較するなら後者のほうがいいなぁとおもった。きょう一回目の接種を受けたので、前者のモードにはまりこむ可能性がだいぶ減った。このような意味で、接種を受けてずいぶんと気持ちが安らいでいる。

 しかしいま考え直してみると、後者ならマシだと思うこと自体が一種の傲慢であるような気もする。死に方を予想してもたいていは選べないし、死にそうになったらやっぱり手近な誰かを全力で恨みながら煩悶するのかもしれない。けっきょくどうしようもない。

 そしてこの考えでもっとも愚かであるのは、実際にワクチンが間に合わず亡くなったひとが既にあまりに多くいる、ということを忘れていることだ。それはやはり礼を失したことだろうとおもう。

 

 

書くこと

 コロナウイルスの感染拡大が始まる以前の時期に書いていたものを読み返したり思い返したりしてみると、どことなく軽やかさを帯びているというのか、現実からわずかに浮いたような文章を書くことができていたのだなと気づく。そのころは、今日はすこしばかりツヤやハリのある文章を書けたな、と満足することがあった。単純に気分に余裕があったのだろう。文章が現実からわずかばかり遊離していることを自分は悪しとは思わない。そうした成分が無ければ世の中は報告書と病的な妄想だけで終始してしまう。

 ところがいまはそういった文章がおおむね書けないとおもう。すくなくとも自然に、ひとりでに書き上がるようなことはほぼ無いとおもう。心理的に追い詰められているというほどではないけれど、現実と自分のあいだに全くといってよいほどアソビやスキマが無い。朝おきたら発熱や息苦しさが無いことを確認し、夕方仕事から帰宅するとまた熱や息苦しさの有無を確認する。息苦しくはないな、とわざわざ確認することでかえって息苦しくなっているようでもある。

 かつては考える・書くといった営みに意義や意味がなかった。無意味だから自由で、軽やかだった。だからときどきは良いものが書けた。いまは、何を考えても書いても、すべて自分の存在や生存に直結しているという感覚から抜け出せない。リアルに考えている。丁寧に誠実に考え、書くことが、自分や他人の生死にわずかであれ貢献しうるという実感がある。それはあの悦ばしき無意味さから随分とおく隔たった態度であるとおもう。比喩的にも実際の意味でも、報告書ばかり書いている。それは、意味の無いものを書くよりももっと底抜けに無意味であるようにも感じる。現実がただただごつごつと生の地肌ですりつけられる。

 そしたら、どうしたらいいのか、わからない。悩んではいないが、困っている。とりあえずなお書くのがよいのかもしれない。書いたら残って、またのちのち読み返すことになるだろうから。

 

 

道鏡代わりの山芋が折れました

 日本の古典籍について全く素養が無いのだが、たまたま『古事談』(源顕兼編、伊藤玉美校訂・訳、ちくま学芸文庫)を読み始めた。

 あれこれ雅なお話が詰まっているのだと思いこんで読み始めたら、第一話からシモネタで面食らった。

称徳天皇、道鏡の陰なほ不足におぼしめされて、暑預を以て陰形を作り、これを用ひしめ給ふ間、折れ籠む、と云々。

 「道鏡の陰なほ不足におぼしめされて」って表現が面白すぎる。平安時代のいろいろな説話を集めた説話集ということだが、登場人物の「キャラ」が立っているものが多く、素人が読んでも不思議な面白みがあるような無いような…と思いつつぽちぽち読み進めてしまう。

 なおシモネタはそこまで多くはなく、ここまで読んだ範囲では「牛車カーセックスに励んでいたら祟られかけた」(巻一「七 宇多法皇、融の霊に腰を抱かるる事」)とか、「花山天皇が即位初日からヤってたぜ」(巻一「一七 花山天皇即位初日の事」)とかぐらいである。

 

 良いなと思ったキャラの一人は藤原道長。天皇に嫁がせた娘が難産で焦りまくった道長が「読経追加!!!」と言って障子を開け放つシーンなど、かれのドタドタした足音が聞こえそうな気がする。そこで部下が「障子を開け放った=〈子が障る〉ことが無くなった=無事ご出産ですよ」とすかさずウィットを挟むというエピソードなのだけれど、そんなテキトウなこと言ってええんかと思う。

 

 もうひとりは花山天皇で、一目惚れした藤原忯子と強引に結婚するが、忯子は17歳でお産で亡くなってしまい、花山天皇はそのショックで出家・退位してしまう。 19歳だった。「俺も一緒に出家するんで」と言った自称ズッ友は嘘泣きして出家せず宮中に残る。Wikipedia見たら出家した花山院は10年くらいして忯子の妹の元に通っていて、なんというか行動がトレンディドラマとかエロゲのカテゴリーな気がする。

 忯子さんはなんともかわいそうだ。死にたくなかっただろうに。

 

 

 

 

Japan Anthropology Workshopで活動が紹介されています

 JAWS:Japan Anthrolology Workshopのウェブサイトに、石巻市のフィールドワークの様子を紹介する記事が掲載されました。

 東北大学災害科学国際研究所の定池祐季先生、ゲルスタ・ユリア先生、および石巻市に住み着いている在野研究者奥堀亜紀子さんと高原が昨年度より組んでいるチームの活動です。

 ドイツから仙台に来たユリア先生が捉えた東北の被災地という趣きの文章です。Covid-19で動きがいろいろ縛られていてしんどいのが正直なところですが、今後も一歩ずつ研究を進めていきたいと思います。

戦史叢書(43)ミッドウェー海戦

このように各種の条件が変化してきたが、わが海軍は依然として邀撃作戦一本槍で進み、ひたすら艦隊決戦に勝つことを目差して精進を続けてきたのである。/この各種条件の変化により、わが海軍が期待している艦隊戦闘が果たして生起するか、その艦隊戦闘で戦争終結が期待できるような戦果が見込めるのか、その戦果が戦争週末にどのように貢献できるのか、そのうえ邀撃作戦以外にさらに適当な方策はないのかなど、再検討を要する問題がでてきた。(略)/しかし軍令部は、従来から艦隊戦闘の勝利をいかにして戦争終末に導くかの重要問題については、具体的な検討に欠けるところがあったようである。(pp.5-6)

 

この際英国も米側に立つであろうが、このようにして米国に対し堅固な長期持久の態勢を固めたのち、わが国は英国の崩壊を促進する作戦を行い、欧州戦局の進展と相俟って、まず英国を崩壊させ、これに伴う米国の戦意喪失を期待しようとした。(p.7)

 

これを要するに、長期戦となる公算はきわめて大きいという判断はみな一致していた。そのようになった場合、長期戦には確たる自信が持てず、と言ってこれを短期戦に導く方策も見付からないというのが実情であった。ただわが国は、欧州戦局の進展に伴い英国の脱落を期待し、これにより短期戦に導きうる可能性があるとみていた。(p.12)

 

大本営政府連絡会議は、昭和16年11月15日、実質的に戦争指導方針といえる「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」を決定し、上奏裁下を得た。開戦前わが国には、正式に”戦争指導方針”は、決められていなかった。(p.12)

 

こんな状況で開戦したところ、開戦後各方面から華々しい戦果が報じられてきたので、わが陸海軍軍人ばかりでなく、国民全般が狂喜乱舞するとともに、これまでの緊張が一挙に緩んでしまった。そしてわが国内には程度の差こそあれ、戦争の前途を楽観し、極端なものは既に戦勝気分となってきた者さえみられるに至った。これは陸海軍部の国民指導が大きな原因となっていたともいえる。この傾向は、戦争や作戦を指導する政府や陸海軍部内にも、現れていたようである。(p.19)

 

 

なんとなく判断が変わる

午前と午後に別々の出張予定が入った。

朝、まず家を出てJRに乗って長田区に移動し、打ち合わせ。そのあと、新神戸駅へそのまま移動する。

午後以降の予定は泊まりになる。荷詰めは済んでいる。だが、家を出るとき「なにか忘れ物をしているな」という直感があった。

こういうときに忘れ物を再発見することはほぼ不可能であると経験上思っている。最低限、絶対に必要なものはあるはずだと頭の中で確認する。ノートPCの電源は?ある。使い捨てコンタクトは?ある。新幹線のICカードは?ある。Kさんにわたす本は?ある。午前中の打ち合わせの資料は?ある。これなら他に忘れ物があっても最悪買えばよい…。

そう区切りを付け、家を出て駅のホームに立ったとき、忘れ物の中身にようやく気づいた。スマホの充電ケーブル(と電源コネクタ)だ。絶妙な忘れ方である。無しでは済ませられない。どこでも買える。だが買うにはほんのちょっと高い。

 

いまから取りに戻ろうかとまず考える。だが午前の打ち合わせに遅刻するかもしれない。この案は却下。これが最初の「判断」となった。

では長田での打ち合わせのあとにいったん自宅に戻って回収してから新神戸駅に向かうか、それとも予定どおり午前の用務地からそのまま新神戸駅へ行き、新神戸駅で買うか。買っても1000円か1500円か、それぐらいだろう。だが取りに戻れば無駄遣いは避けられる。1500円の節約だって積み重ねれば大きいじゃないか。それに、新幹線はかなり余裕をもって予約しているから、いったん帰宅しても全く問題無い。昼食も自宅で済ませることになるから外食せずに済む。シャワーも浴びなおせる。

だがなんというか、これから出張に行くぞーというテンションがいったん萎むんだよな…みたいなデメリットもある。複数の予定先を連続で回ってゆくの、いかにもお仕事リア充みたいなかんじでイイじゃないですか。こうやって書いてみるとわりとアホらしいけれど、テンションはだいじだ。出張時の外食もそれなりの気分転換になる。

1500円の無駄遣い回避か、テンションか。この判断を数分間、朝の電車のなかで迷った。実のところどっちでもよかった。たいして悩んだわけでもなかった。むしろ複数の選択肢のいずれも採りうる立場にいること自体が心地よかった。そうしてそれぞれのメリット・デメリットを多少かんがえたあと、ついに脳内議会の議決が固まった。いったん帰ろう。

この判断を下したこと自体に微かな満足を覚えた。なぜ満足だったのか。可能性として存在していたもう一つの選択肢を否定し、消失させる快楽だったのだろうか。あるいは自分が判断の主体であることの確認それ自体に満足を覚える仕掛けになっているのだろうか。1500円を払うか払わぬかの判断で満足するのだから安価な人間だとおもう。

 

そうして長田で第一の用事を予定どおり済ませた。品の良いひとびとで、わたしはこのひとたちが好きだとおもう。歩きながら、長田はおばあちゃんおじいちゃんがあちこちベンチに座っているなぁとおもう。そうして歩きながらふっとおもう。

 

やっぱり直接新神戸駅に行こう。

 

この変更にはわれながら驚いた。午前中の数分間の逡巡はなんだったのか。はじめから「直接案」を決議していればよかったではないか。驚いたのは、メリット・デメリットの測定が更新されたから判断を更新したのではないということだ。ただ、なんとなく気が変わったのだ。いったいこの「なんとなく」は、なんなのだろう。なんとなくでありながら、当初の判断よりもそれは強固である。この「なんとなく」が再度くつがえることは決してないことが直感でわかる。午前中は自分のことがよくわかったような気になっていた。つまり1500円の判断で満足を覚える安価な人間である。ところが今やその評価は返上され、自己不信となんとなくゆえの確信の同居という不可思議な、得体のしれない存在に圧迫されている。なんとなくに値付けをすることは難しい。1500円の判断だから「なんとなく」で覆るのではなく、このままでは1500億円の判断であっても「なんとなく」でひっくり返すのではあるまいか(政治家や独裁者でないのでその恐れはないが)。ところがいっそう私は「なんとなく」において安息している。

仮に最初に「直接案」を採用していたら、なんとなく「やっぱりいったん家に帰ろう」と判断していたのだろう。結局どっちでもよいのは当初から変わらないが、そうであるならば、だからこそ一貫しているべきではないのか?それでいいのか自分。

あるいは、この「なんとなく」による転覆を実は当初から見越して午前中の脳内決議が採択されたにすぎないのか。つまり脳内議会に実は小沢一郎みたいなのが潜んでいて、当初は「いったん帰宅案」を通過させておき、そのあと彼は「なんとなく」クー・データーにより「直接案」を実効化させるに至った。当初の帰宅案は脳内小沢一郎一派の謀略であったのだ。

もしそうならば、この「なんとなく」こそがわたしの本当の判断であって、朝の逡巡はその前奏にすぎなかったということになる。仮初めの「判断」に満足していたわたしの主体なるもの(それは無意味な自己確認にすぎなかった)は所詮は細川護熙のようなもので、ほんとうにものごとを決めていたのはわたしの脳内議会の奥底で暗躍している小沢一郎のごときなにものかである。かれは「なんとなく」をここぞというところで用いたのである。かれは一貫して、はじめから直接案を真の意図として維持していたのである。

だが、上記の考え方は本当に正しいだろうか。実は裏であれこれ暗躍したうえで最後に現実化する「わたしのほんとうの判断」というものや、「ほんとうの意図」といったものがあるのか。じつは「なんとなく」判断が転覆することそのものが脳内議会中の何者かが真に目指していたことであって、ほんとうの意図はどちらでもよかったのではないか。つまり「帰宅→直接」も「直接→帰宅」も、最終結果としては実はどうでもよく、あいだに「→」が入ること自体が「なんとなく」の当初からの目的かつ手段だったのではないか? いうなれば政策理念が無く政権再編だけが趣味であるような、そういったなにかが脳内議会をかき回している。それが「なんとなく」の真のすがたであるのかもしれない。

だとすると、つまりわたしの「判断」とはなんだったのだろうか。どこに主体があるのか。

 

チェーン・アギ論

 久しぶりに逆襲のシャアを観ている。

 ところでわたしはトミノ宇宙世紀の各作品のテーマについて、1stは「戦争と生存」、Zは「女と男」、逆襲のシャアは「死と命」として規定できるのではないかと考えている。

 この各テーマは後のものが前のものを包摂している。つまり逆襲のシャアという作品は、それ以前の「戦争と生存」「女と男」というテーマを含んだうえで、それらをさらに超える物語として「死と命」ないしは世代の問題に取り組んでいると考える。

 

 さて逆襲のシャアを観るうえで従来着目されてきたのはシャアとアムロ、クェスとハサウェイといった物語の中心軸を構成するキャラクターである。それは間違っていないけれども、ふと、チェーン・アギという脇役に注目すると、この作品をまた別の角度から解釈できるのではと感じた。

 

 チェーンに着目するのは彼女がトミノ宇宙世紀作品群の中で珍しい類型のキャラクターであるように思うからだ。

 トミノ宇宙世紀作品群の女性キャラクターは基本的に「主体性」と「運命」という2つの理念によって規定されている。『Z』のレコアさんとエマ中尉を例に出すのがわかりやすい。レコアさんはエゥーゴに所属していたが、シロッコに誘引されてティターンズに転ずる。エマ中尉はバスク・オムの非道に反感を持ち、ティターンズからエゥーゴに転ずる。二人は作品のなかでちょうど鏡合わせのようなキャラクターであることが観客にわかりやすく示されているが、二人とも自らの主体的な判断で、生命を賭して自分の行き先を選び取っている。ところが主体性を発揮すれば幸福になる/ハッピーエンドが訪れるという期待が裏切られることに、作品の基本的な悲劇性がある。レコアさんもエマ中尉も、自分が自分の主体であるための道筋を探しつつ、グリプス紛争の末期に命を落としてしまう。個人の努力や才能から全く離れた次元で、その生命が踏み潰されてしまう。この次元を運命と呼ぶ。主体性では乗り越えられない運命に支配されながら、それでも自らの主体であろうとするところに、彼女たちの生命の輝きがある。エマ中尉はそれを知っていたからこそ「命を吸って」とカミーユに言ったのであり、ヘンケン艦長の挺身も彼女の主体と運命の一瞬を守ることに捧げられたと解するべきだろう。

 レコアさんとエマ中尉は「主体性」と「運命」がわかりやすく示される例である。他の女性キャラクター達も、レコア/エマと同様ではないものの、この2つの理念にそれぞれの仕方で規定されている。というか、主体性と運命をどのように描くか、というところに各女性キャラクターの個性が現れる。

 ライラはさほど自らの運命を乗り越えるといったことに関心は無いが、代わりに自由である。サラは自分自身で運命と主体性を支配していると半ば信じつつ、結局はシロッコに搾取されていた。マウアーとファは運命に対して独特のしなやかなさを持っているが、自分が勝ち取るべきものは決して見失わなかった。フォウとロザミアは主体性を剥奪され、ただ運命に踏み潰されるのを待つだけのようでいて、最期のわずかな瞬間にカミーユとの関係性のなかで主体性を掴み取る(そうした関係性の可能性を全く拒絶するがゆえに、カミーユはシロッコを「おまえだけは」と断罪したのだろう)。『1st』ではキシリア様やミハルがわかりやすいだろうか。

 このようにトミノ宇宙世紀作品群の女性キャラクター達は主体性と運命に対する立ち位置によって個性立てられており、トミノ=サンはこの色付けがきわめて上手い。だから彼女達には作品内で独特の「色気」がある。これに対してアイナ様やニナは主体性と運命という基本的な規定をトミノ作品群から流用しているにも関わらず、それに対する個性付けがほとんど為されていないので、上記の女性キャラ達のような艶が無く、登場作品もベクデル・テストにほぼ通らない。これらの作品では、主体性と運命はシローとノリス、ウラキとガトーという男性同士の関係の中に完結してしまう。

 やや脱線するが、この観点で解釈するとハマーン様のキャラクターはかなり平板であることに気づく。カタログスペック的な個性が濃すぎて(あとキュベレイがかっこよすぎて)、主体性や運命への距離感を見せる暇が無いのだ。

 

 前置きが長くなった。主体性と運命という理念で規定される多くの女性キャラクターのなかで、チェーン・アギだけは、この理念にどこか当てはまらないように思うのだ。だからといってアムロに完全に従属しているのでもない。なるほどチェーンが主体的に判断・行動しているシーンは多いし、最後はクェスとハサウェイの悲劇的なやりとりのなかで自身の運命を受け取る。だが、彼女の立ち位置はこの2つの理念のみで解釈することがどこか難しい。レズン、ケーラ、クェス、ナナイといった他の女性キャラクターがおおむね上記の枠組みに収まるのに対して、チェーンは彼女の運命や主体を超えた役割を与えられているように思う。それはララァがついにアムロとシャアのあいだで得ることができなかった役割でもあるように思う。

 長くなったので稿を改めます。