しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

書くこと

 コロナウイルスの感染拡大が始まる以前の時期に書いていたものを読み返したり思い返したりしてみると、どことなく軽やかさを帯びているというのか、現実からわずかに浮いたような文章を書くことができていたのだなと気づく。そのころは、今日はすこしばかりツヤやハリのある文章を書けたな、と満足することがあった。単純に気分に余裕があったのだろう。文章が現実からわずかばかり遊離していることを自分は悪しとは思わない。そうした成分が無ければ世の中は報告書と病的な妄想だけで終始してしまう。

 ところがいまはそういった文章がおおむね書けないとおもう。すくなくとも自然に、ひとりでに書き上がるようなことはほぼ無いとおもう。心理的に追い詰められているというほどではないけれど、現実と自分のあいだに全くといってよいほどアソビやスキマが無い。朝おきたら発熱や息苦しさが無いことを確認し、夕方仕事から帰宅するとまた熱や息苦しさの有無を確認する。息苦しくはないな、とわざわざ確認することでかえって息苦しくなっているようでもある。

 かつては考える・書くといった営みに意義や意味がなかった。無意味だから自由で、軽やかだった。だからときどきは良いものが書けた。いまは、何を考えても書いても、すべて自分の存在や生存に直結しているという感覚から抜け出せない。リアルに考えている。丁寧に誠実に考え、書くことが、自分や他人の生死にわずかであれ貢献しうるという実感がある。それはあの悦ばしき無意味さから随分とおく隔たった態度であるとおもう。比喩的にも実際の意味でも、報告書ばかり書いている。それは、意味の無いものを書くよりももっと底抜けに無意味であるようにも感じる。現実がただただごつごつと生の地肌ですりつけられる。

 そしたら、どうしたらいいのか、わからない。悩んではいないが、困っている。とりあえずなお書くのがよいのかもしれない。書いたら残って、またのちのち読み返すことになるだろうから。