しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

ゼンマイを巻く

風呂場にゼンマイ仕掛けのカメのおもちゃがある。プラスチックのウミガメの腹に大人の親指の先ぐらいのツマミがあり、それをじりり、じりと回してウミガメを水面に置くと、両腕をぐるぐる回転させて水面を進んでゆく。

このツマミのゼンマイを回すのは、1才2ヶ月のこどもには少々硬くて難しい。一方の手でウミガメ本体を掴み、もう一方の親指と人差し指の先で浅いツマミをぎゅっと掴んで確実に回さなければならない。だから入浴中にウミガメのゼンマイを回すのはもっぱら私の仕事だったが、こどもはそれを見ると自分でツマミを回そうとする。こどもにはまだまだ無理だと思っていたが、ひそかに上達して最近自分ひとりで回せるようになってしまった。おどろいた。

ところがゼンマイであるから、ある程度回すと硬く締まってそれ以上は回せなくなる。硬く締まるのはゼンマイに力が十分溜まった証拠だからあとはウミガメを水面に置いて泳がせればよいものを、こどもはそのように理解していない。そのうち、回したいのに回せないと怒って泣き始めてしまう。そうなるとかれの両手からウミガメを取り上げて水面に置いてやらねばならない。

ゼンマイを巻くのはウミガメを泳がせるためである。しかしこどもはそう理解しない。ただゼンマイを巻くのが楽しくて、それ自体が目的になっている。

同じことは部屋の電灯のスイッチにも起きている。壁に電灯のスイッチがあり、親が抱き上げるとこどもは手をうんと伸ばしてスイッチを切り替えようとする。これもウミガメほどではないがやはりコツが要る。スイッチの角ばったところに指先の力を集中させて、パチンと切り替えねばならない。それに応じて部屋の電灯が点いたり消えたりするのだけれど、こどもはずっと照明には興味を示さなかった。スイッチを押す、パチンという音と感触が生じることだけが大切で、抱っこしているとずっとパチンパチンやっている。外からは、照明の明滅でモールス信号を送っている部屋のように見えていたかもしれない。

スイッチと電灯がつながっているということをかれが理解したのはごく最近のことで、スイッチに従って廊下の電灯が点いたときかれの表情がぱっと開き、満足そうに笑った。ちょうど顔が天井の電灯の方を向いていたのだった。このときかれは因果関係という大人の世界の厄介なものに出会った。スイッチを押す自分が「因」で、LED電球が光を発することが「果」である。自分の行為が自分のパチンという指先の実感からさらに拡大して波及している。その波及の知覚と「パチン」の知覚とが一体化しており、その一体化が自分の能力の拡大として感じられるのだろう。

これに比べると、ゼンマイを回すこととウミガメの腕の回転は「一体化」がしづらいのかもしれない。自分がゼンマイを巻く。それを因として、次第にそれが硬くなり回せなくなるという果が生じる。さらにウミガメを水面に置くと腕を勢いよく回転させて走り、ゼンマイが戻る。ゼンマイが硬く締まったことが因となり、水面を泳ぐという果が生じる。それがまた因となってゼンマイがゆるみ、自分がまたゼンマイを回せるという果が生じる。自分の動作、道具の状態推移、道具の挙動のこうした連続を大人はふんわりと一体のものとして理解するが、こどもはまずゼンマイを回すこと自体の楽しさに集中していて、因果は二の次である。

…というような文章を書こうとしていたら、昨晩、こどもはゼンマイを巻ききったらウミガメを水面に置くようになっていた。これまでかれの喜びの中心だったゼンマイを巻く指先の感覚は、ウミガメのおもちゃの遊び方の一部に格下げされてしまった、とも言えるかもしれない。しかしまた、かれの知覚が時間においても器官においても広がったということでもある。この拡大のペースに、わたしの記録が追いつかない。