しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

なんとなく判断が変わる

午前と午後に別々の出張予定が入った。

朝、まず家を出てJRに乗って長田区に移動し、打ち合わせ。そのあと、新神戸駅へそのまま移動する。

午後以降の予定は泊まりになる。荷詰めは済んでいる。だが、家を出るとき「なにか忘れ物をしているな」という直感があった。

こういうときに忘れ物を再発見することはほぼ不可能であると経験上思っている。最低限、絶対に必要なものはあるはずだと頭の中で確認する。ノートPCの電源は?ある。使い捨てコンタクトは?ある。新幹線のICカードは?ある。Kさんにわたす本は?ある。午前中の打ち合わせの資料は?ある。これなら他に忘れ物があっても最悪買えばよい…。

そう区切りを付け、家を出て駅のホームに立ったとき、忘れ物の中身にようやく気づいた。スマホの充電ケーブル(と電源コネクタ)だ。絶妙な忘れ方である。無しでは済ませられない。どこでも買える。だが買うにはほんのちょっと高い。

 

いまから取りに戻ろうかとまず考える。だが午前の打ち合わせに遅刻するかもしれない。この案は却下。これが最初の「判断」となった。

では長田での打ち合わせのあとにいったん自宅に戻って回収してから新神戸駅に向かうか、それとも予定どおり午前の用務地からそのまま新神戸駅へ行き、新神戸駅で買うか。買っても1000円か1500円か、それぐらいだろう。だが取りに戻れば無駄遣いは避けられる。1500円の節約だって積み重ねれば大きいじゃないか。それに、新幹線はかなり余裕をもって予約しているから、いったん帰宅しても全く問題無い。昼食も自宅で済ませることになるから外食せずに済む。シャワーも浴びなおせる。

だがなんというか、これから出張に行くぞーというテンションがいったん萎むんだよな…みたいなデメリットもある。複数の予定先を連続で回ってゆくの、いかにもお仕事リア充みたいなかんじでイイじゃないですか。こうやって書いてみるとわりとアホらしいけれど、テンションはだいじだ。出張時の外食もそれなりの気分転換になる。

1500円の無駄遣い回避か、テンションか。この判断を数分間、朝の電車のなかで迷った。実のところどっちでもよかった。たいして悩んだわけでもなかった。むしろ複数の選択肢のいずれも採りうる立場にいること自体が心地よかった。そうしてそれぞれのメリット・デメリットを多少かんがえたあと、ついに脳内議会の議決が固まった。いったん帰ろう。

この判断を下したこと自体に微かな満足を覚えた。なぜ満足だったのか。可能性として存在していたもう一つの選択肢を否定し、消失させる快楽だったのだろうか。あるいは自分が判断の主体であることの確認それ自体に満足を覚える仕掛けになっているのだろうか。1500円を払うか払わぬかの判断で満足するのだから安価な人間だとおもう。

 

そうして長田で第一の用事を予定どおり済ませた。品の良いひとびとで、わたしはこのひとたちが好きだとおもう。歩きながら、長田はおばあちゃんおじいちゃんがあちこちベンチに座っているなぁとおもう。そうして歩きながらふっとおもう。

 

やっぱり直接新神戸駅に行こう。

 

この変更にはわれながら驚いた。午前中の数分間の逡巡はなんだったのか。はじめから「直接案」を決議していればよかったではないか。驚いたのは、メリット・デメリットの測定が更新されたから判断を更新したのではないということだ。ただ、なんとなく気が変わったのだ。いったいこの「なんとなく」は、なんなのだろう。なんとなくでありながら、当初の判断よりもそれは強固である。この「なんとなく」が再度くつがえることは決してないことが直感でわかる。午前中は自分のことがよくわかったような気になっていた。つまり1500円の判断で満足を覚える安価な人間である。ところが今やその評価は返上され、自己不信となんとなくゆえの確信の同居という不可思議な、得体のしれない存在に圧迫されている。なんとなくに値付けをすることは難しい。1500円の判断だから「なんとなく」で覆るのではなく、このままでは1500億円の判断であっても「なんとなく」でひっくり返すのではあるまいか(政治家や独裁者でないのでその恐れはないが)。ところがいっそう私は「なんとなく」において安息している。

仮に最初に「直接案」を採用していたら、なんとなく「やっぱりいったん家に帰ろう」と判断していたのだろう。結局どっちでもよいのは当初から変わらないが、そうであるならば、だからこそ一貫しているべきではないのか?それでいいのか自分。

あるいは、この「なんとなく」による転覆を実は当初から見越して午前中の脳内決議が採択されたにすぎないのか。つまり脳内議会に実は小沢一郎みたいなのが潜んでいて、当初は「いったん帰宅案」を通過させておき、そのあと彼は「なんとなく」クー・データーにより「直接案」を実効化させるに至った。当初の帰宅案は脳内小沢一郎一派の謀略であったのだ。

もしそうならば、この「なんとなく」こそがわたしの本当の判断であって、朝の逡巡はその前奏にすぎなかったということになる。仮初めの「判断」に満足していたわたしの主体なるもの(それは無意味な自己確認にすぎなかった)は所詮は細川護熙のようなもので、ほんとうにものごとを決めていたのはわたしの脳内議会の奥底で暗躍している小沢一郎のごときなにものかである。かれは「なんとなく」をここぞというところで用いたのである。かれは一貫して、はじめから直接案を真の意図として維持していたのである。

だが、上記の考え方は本当に正しいだろうか。実は裏であれこれ暗躍したうえで最後に現実化する「わたしのほんとうの判断」というものや、「ほんとうの意図」といったものがあるのか。じつは「なんとなく」判断が転覆することそのものが脳内議会中の何者かが真に目指していたことであって、ほんとうの意図はどちらでもよかったのではないか。つまり「帰宅→直接」も「直接→帰宅」も、最終結果としては実はどうでもよく、あいだに「→」が入ること自体が「なんとなく」の当初からの目的かつ手段だったのではないか? いうなれば政策理念が無く政権再編だけが趣味であるような、そういったなにかが脳内議会をかき回している。それが「なんとなく」の真のすがたであるのかもしれない。

だとすると、つまりわたしの「判断」とはなんだったのだろうか。どこに主体があるのか。