しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

共通テストでマスクをしなかったひとのこと

大学入試の共通テストでマスクを鼻にまで掛けなかったひとが逮捕されたりした。試験監督のひとにも、同じ教室にいた受験生にも、たいそう迷惑なことだったとおもう。とはいえ20年くらい経ってこのニュースを読み返したひとは、喜劇とヒステリーが入り混じったものを読み取るかもしれない。

いろいろな人生があるけれども、マスクが鼻の穴の下にあるか上にあるかで前科が付くというのは(いや、もちろん医学的には重要なことだけれども)、なんとも不思議なことだ。

 

それにしても不器用なひとだ、とおもう。試験監督の6度の警告に従わず、別室受験という素晴らしい代替案も受け入れることができず、最後は大学のトイレに立て籠もって警察に逮捕された。他の多くの受験生からやや離れた年齢が全国に報道されて、失笑と罵倒の的にされた。

このひとの心理状態はただ想像するしかないけれど、なんとなくはその動きを追跡できるような気もする。こだわって、意固地になって、抵抗して、戦ってしまう。どこかで矛を収めることができず、ここで退いたら全世界が自分という支えを失って崩れてしまうのではと考えてがんばってしまう。そうして自滅する。

おそらく、かれには彼なりの「分」や理由があったのだろう。あるいは自分に歯向かってくるものを自分の正論や闘争で返り討ちにしてやりたいという「構え」があったのかもしれない。とにかく、なにかこだわらなければならないものが彼にはあった。そのとき、それは具体的にはかれの鼻の穴の下と唇の中間にあった。そこがかれの最終防衛ラインだった。

多くのひとは損得勘定をする。自分に「分」や理由があると思っていても、それを守ることでより大きな損が出るのならば、自分の正義はすっと引き下げてしまえばよい。そういう余裕がある。それは合理的な判断であったり、いわゆる「長いものには巻かれろ」式の処世術であったり、あるいは全く素朴な「勝ち目が無い」という判断であったりする。

かれはおそらくそれが許せない。そういう損得勘定で動く人間は自己の正義を持たない愚かな畜群であるとおもっている(いや、あくまで想像なのだけれど)。かれにとって、大学入試という場は、そうした畜群の中から自分を選り分けるためにある。だからなおのこと、この戦いで妥協することはできなかった。一瞬の恥を次の大勝利につなげるという工夫も不可能だった。ところがよりによってその大学入試の場で、なぜか自分だけが、自分の抵抗線を集中攻撃されている。追い詰められた岬の端っこで手榴弾を握りしめるような構図になる。

かれは全く勘違いしていて、大学入試やその後の選別プロセスが重視するのは、あるものを捨ててあるものを得る柔軟さなのだった。大学や世間は、スクワットができない人や肝臓の数字が少し悪い人や表情が硬いひとにはそうキツくは当たらないけれども、彼のような「こわばり」には滅法きびしい。そして抵抗すればするほど、どんどん追い詰めてゆく仕組みになっている。かれはその仕組みに戦いを挑みたかったのかもしれない。何かが許せなかったのだろう。これからも許さないだろうか。同室の受験生や試験監督にはかれは謝ったほうがいいと思うけれども、なんとも生きにくい世の中にしてしまっていることで申し訳ないねぇ、という思いが自分にはちょっとあります。