しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

ただふにらふにらぱたぱたしている

こどもと接していると、しあわせとはいったい何であろうなぁと素朴に疑問をおぼえる。

わたし自身は、こどもと接していることはたしかに幸福を感じる。それはたとえば、腕の中でこどもがまどろみつつあったり、体重の増加を確認したり、哺乳瓶のミルクが空になったとき。あるいは、あやしているうちにこどもが満面の笑みを一瞬ほころばせるときや、くぅくぅと何かをこちらに訴えかけるような声を出すとき。沐浴のあとに顔に保湿クリームを塗ったり、首筋にねばりついた皮脂を拭き取るときにも幸福を感じる。写真を見返すことや、妻からこどもの話を聞くことも幸せだとおもう。

これらはなにものにも代えがたいけれども、しかしそれ以上に幸福を感じるのは、わたしや妻がこどもとじかに接しておらず、こどもがひとりでふにらふにらと手足を動かし、首や視線をゆらがせてただ満足しているのを見るときである。前段の幸福は、自分とこどもの関わりによって生じる幸福である。これに対して、こどもがただ自分自身で居心地ついており、満足して、求めることも欠けることもなく自らを存在している。おそらくこども自身も幸福を感じているけれども、そうした感覚すら必要としていない。むさぼらず、おだやかなままで居る。そうした様子を確認することは、子どもと関わることによる幸福と質がまったく異なるようにおもう。

何が違うのだろう。関わりによる幸福は、求め合い、与え合うような営みから初めて生じる幸福である。これは増大を求める幸福でもある。こどもが笑顔を見せてくれると幸せに感じるがために、笑顔をさらに求めてしまう。あやしたり、かれが心地よくなるように工夫する。相手に期待し、求め、刺激し、そうして生じたものを受け取るという態勢がお互いにある。この互酬関係はこどもの生存には必須のもので、たしかに悪いものではない。しかしそれだけに実利的なものと地続きでもある。プレゼントを渡して好意を得るとか、学生に丁寧に教えて良いレポートを提出してもらうとか、さらにはお金を支払って一定の製品やサービスを享受するといった、損得や実利の「関わり」と本質的には同じ種類であるようにおもう。

それに対して、こどもがひとりで幸せそうにしているのを少し離れたところから見るとき、わたしとかれのあいだに関わりが生じていない。こどもがほのかに微笑んでいても、それはわたしに対して笑顔をみせているのではない。手足を動かしたいから動かしている、近くにあるものを見たいからただ見ている。それで満足している。極楽浄土の蓮の花がただ開いたり閉じたりするのを眺めているような気持ちになる。こどもが、本質的にはわたしたち保護者や制度上・生物学上の親を必要とせず、いま現在の享受においてはかれ自身がかれ自身である。それで済んでいる。それを確認することが、この異質な幸福の核心なのかもしれない。関係による幸福も大切だけれど、無関係ゆえの幸福はさらに特別であると感じている。

なぜに大人はこの赤子のただふにらふにら、ぱたぱたころころしているような幸福をみずから享受することが難しいのだろう。余計なことを考え、心配し、あれこれ手を尽くして幸福の実感をかき集めようとしてしまう。そんなことは何もせず、なにも見つめず、ただ赤子のように、まばたく植物のようにしていればよいではないか。…と思うものの、やはりそれは今更無理なことである。

ところでこどものそうした様子を見ていると、一見無意味にみえる手足の動きや表情が、大人のからだの動きや表情の練習をしているのかもしれないな、とふとおもった。大人が主に夢になかでそうするように、関わりのなかで体験した所作や表情を自分で咀嚼しなおしているようである。そうした動きを身につけることで、おだやかな安息は失われて、かれはより現実的な苦楽を経験するようになってしまうのかもしれない。だから見ていて特別な幸福を感じるけれど、かすかに悲しいような感覚もある。