しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

ネット時代の「世に棲む患者」

 あるコンビニの店長が客に対して深夜に卑猥な言動を繰り返していたことが知られ、コンビニ本社はこのオーナー店長とのフランチャイズ契約を打ち切った。

 報道によれば地元では以前から知られていた人物だったらしい。事件化した直接のきっかけは客が店長の動画を撮影し、ネットに上げたことだった。

 事件の責任はこの店長自身の言動にある。動画を撮った客は当然ながら被害者である。その大前提は揺るがない。しかし一方で、動画を簡単に撮影・アップロードできるネットとスマホがなければ、こうした事件化は無かったのではないかとも思う。

 誤解のないよう付け加えておくと、動画を撮影さえしなければ良かったのだと客を責めているのでは絶対にない。誰でもそうするだろう。ただわたしがここで言いたいのは、「ちょっと変なひと」「頭のビョーキっぽいひと」とネットとの関係を、世間はそろそろ考えなければならないのではないか、ということである。

 

 このテーマですぐに思い起こすのが、まず昨年の「性の悦びおじさん」である。電車の車内で「性の悦びを知りやがって…」とブツブツ言う様子が隠し撮りされ、ネットにあげられ、一躍「人気者」になった。しかしかれは程なくして駅構内で一般人に取り押さえられ、窒息死した。最初の動画と死亡事故との間に関係があると断言はできない。しかし知名度が急に上がったことが、彼自身の興奮と、取り押さえた一般人男性たちの心理に何らかの影響を与えていたと想像することはできる。動画で知られてしまったことがかれの周囲の出来事を奇妙に増幅していたように思う。

 

 もう一つの例は、aiueo***という動画をYoutubeにアップロードし続けている男性の事例である。かれの場合は事情がややこしい。かれ自身が自宅周辺の動画を撮影し公開しているからである。それらの動画は彼自身のさまざまな妄想と憎悪に満ちている。かれの動画を観ればたいていのひとが不快に感じる。

 そこで一部の好事家がかれの家を直接訪問し、嫌がらせを行うようになった。aiueo***氏はそれをまた撮影し、アップロードする。被害妄想が現実の被害になってしまった。こうなると悪循環に歯止めがかからなくなる。

 性の悦びおじさんは盗撮の被害者だが、このaiueo***氏の場合はじぶんで動画を撮影している(しかもその動画の中でしばしば他人に攻撃的言動を繰り返している)。この点で二人を同列に並べることはできない。だがネットと動画が状況をより悪化させていること、それも他人が彼らをおもしろがって「いじる」ことで状況が悪化している点は共通している。

 悪循環の引き金を引いているのは間違いなくaiueo***氏だが、かれだけで悪循環は成立しない。仮に動画とネットがなくても、かれは周辺住民に憎悪を振りまいているだろう。かれは地域の要注意人物とみなされ、住民たちから距離を取られ、くりかえし警察のお世話になるだろう。だがかれをめぐる騒動はおおむねその範囲でとどめられる。「町内」の出来事、ひとつの警察署や派出所の出来事におさまる。その町内のひとにとっては大きな迷惑であるけれど、全国区にはならない。父親や母親の様子まで動画に撮られてアップロードされることはない。全国区になることで問題が解決することは決してない。

 

 あれこれわめいているひと、ぶつぶつ言っているひとは、たいていどの町にもどの鉄道路線にもいる。こうした「世に棲む患者」の皆が地域から愛されているわけでも、手厚いケアを受けているわけでもない。ただ、結果的にそこそこうまくやっているひとは少なくない、と言って良いとおもう。ここでの「そこそこうまくやっている」のは、とりあえず当人が死なない・殺されない、他人を殺さない、というレベルの話である。

 ところがネットと動画が絡むと、この最低レベルを一気に割り込む。実際に「性の悦びおじさん」は死んでしまった。aiueo***氏にも同種の事件が起きてもおかしくないだろうとわたしはおもっている。

 

 ネットと動画の無い時代、「ちょっと変なひと」「頭のビョーキらしきひと」「ぶつぶつ言ってるひと」「わめているひと」たちに対して、市井のひとはほどよく距離をとった。たいていは、無理に関わるのでも、殴りつけるのでもなかった。よく言えば「そっと見守る」態度、悪くいえば「冷淡」だった。これは当たり前といえば当たり前のはなしで、現在でも電車の車内でひとりぶつぶつ言い始めるオジサンがいたら、たいていのひとはそっと距離を取って無視する。それだけのことだった。

 ところがスマホが普及すると、なぜか、かれらを「撮影する」「アップロードする」「いじる」という積極的かつ非接触的なかかわりが許容されるようになった。許容されたというのは言い過ぎで、たいていの常識人は依然として面白がって撮影などしないのだけれど、一部のひとはそれが許されるのだと考えるようになった。

 健常者の言動なら勝手に撮影してアップロードするのは躊躇するのに、ある種の精神疾患者ならアップロードして良いと判断してしまうのなら、これは差別的思考と言うほかない。相手を「狂人」や「障害者」と判定することで、倫理的判断のハードルがぐっと引き下げられてしまう。スマホがそれを後押しする。

 

 「そっとしておく」という当たり前で無理のない態度が、なぜかネットでは守られない。盗撮や「いじり」によってそのひとの状態が悪化するのではないかという予測が意識から後退し、「面白がる」という態度に取って代わられる。面白がられて、次いで殺される。

 「ちょっとおかしなひと」とネットに晒すのは基本的に良くないことだ、ネットに出張している「ビョーキのひと」をいじるのは良くないことだ、というコンセンサスをそろそろ社会の人々は確認すべきだとわたしは真剣におもう。

 

 ある種の妄想や強迫観念を持つひとびとにとって、ネットはとても使いやすいツールである。自分を取り巻く陰謀についての情報や「証拠」がいくらでも転がっているし、敵対者をすぐに発見することができるし、リアルではなかなか出会えない同志を得ることもできる。自分が迫害されていることを訴えるための場所として、ブログ、SNS、動画サイトを活用することができる。

 かれらの一部はネットを用いて自ら状況を悪化させてしまう。妄想を強化してしまう。aiueo***氏はその派手な例である。しかし、だから「いじっても良い」ということにはならないだろう。電柱に向かってぶつぶつ説教しているひとも、Youtubeのチャンネルに動画を上げ続けるひとも、自分の世界をそこに見出している点で変わりはない。電柱のそばにいるひとを「そっとしておく」のが正解ならば、Youtubeにいるひともやはり「そっとしておく」べきであるとおもう。

 

 最後にコンビニオーナーの話に戻ると、じゃあやっぱり客が動画を撮ったのは悪いことだったのか、という反論が予想される。この問いに対して、撮るべきではなかったとは答えられない。ただ、かれは本当に職を失うべきだったのかとも考えてしまう。突き詰めれば、町内レベル・地域レベルでの判断こそが実際に尊重されるべきであるとおもう。その町内のひとが「あのコンビニは変な店長がいるから」と判断して店によりつかないようになり、店が潰れたなら、それは町内レベルでの判断である。「変な店長がいるが、まあ別にいい」という判断もありうる。その判断の内部で、変な店長はなんとなく仕事を続けて生きてゆくことができていた。ところが動画によって全国レベルになると判断が潔癖方向に振り切れる。結果、ひとりのおかしなひとが生きる余地が無くなってしまった。それはだれを幸福にしたのか。