しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

湯婆婆すごいな

湯婆婆はすごい。エライ。

  • 危機の予兆を誰よりも早くキャッチする(「なにかイヤなものが入り込んだね…」)
  • 危機管理案件の要所を自らその場で把握し、適切な指示と道具を従業員に提供する(「トゲのようなもの…? 千、これをお使い!」)
  • 大型案件では社内の縦割り型部局編制を一時的に解除し、自ら陣頭に立ってプロジェクトチームを鼓舞・指揮する(「もっと強い力で引くんだよ!」)
  • 一線を越したクライアントに対しては自ら身体を張ってドラゴンボール的対処を実行する(「これ以上はお客様とて…!」)
  • 仕事に没頭するのではなく家族も大切にする(「坊!坊!?」)
  • 他者との関係は基本的に「契約関係」として捉え、相手が約束を果たせば自身もそれに応じる姿勢を保つ(「千が坊を取り戻せば両親と千を返してやってください」)
  • 創業時の理念を忘れない(「働きたいと言う者には誰であれ仕事を与えるって誓いを立てちまったからね…」)
  • 従業員と雇用契約書を取り交わす ←すごく大事!!!(笑)

 

それに対して新入社員としての千はちょっとやらかしが激しすぎる気がする

  • 施設警備にスキを作りカオナシの侵入を許す
  • トロイの木馬型紙切れの侵入を許す
  • 重課金客に塩対応して暴走させる

 

その他、久しぶりに観た感想

  • 最終盤のハクが名前を取り戻すシーンがディズニーっぽくて驚いた。ピーターパンとかアラジンとか、(ディズニーではないが)E.T.とか。
  • 物語の展開や小さい演出がどれもメリハリが効きすぎていて、わかりやすい。わかりやすいので、微妙にのっぺりしている。
  • 時間の動きがずっと激しくてちょっと疲れた。たとえば『トトロ』はもっと緩急に奥行きがある。母親の退院が延期になった後、サツキが畳の部屋でごろんと横になってるシーンなども活きている。『神隠し』ではそういう緩急がほとんど無くて、ずっと動いている。トトロよりはラピュタに似ている。
  • 列車に乗って「沼の底」駅まで行くまでのシーンは見た目はゆったりどんよりしているけれども、前後の物語展開が強く指示されているので先を急ぎながら観ることになる。
  • 奥さんが「ハクが千尋におにぎりをあげるシーンがこの映画のクライマックス」と言っていた。そうなの?と思ったけれど、観てみると一理あると思った。あのシーン以降は、映画としての尺があるのでいろいろ展開を詰め込んだというかんじ。

 

 

情報をよこせ

 アメリカではどうか知らないが、神戸で悩んだ一つは「情報をよこせ」のたえまない要求であった。日本のヒエラルキーでは、ボトムアップ型の情報伝達において「情報が自分をバイパスすること」は自分の権力を無視され耐えがたいことなのであろう。情報は各レベルで満足ゆくまで再読され、訂正、補足あるいは削除されて一つ上に挙げられる。

 逆にトップダウン型では、即時に伝達実施されることを求めてくる。非常事態では、自分が唯一の上位機関であると思っているところが複数生じるのが普通であって、そこからの指示が殺到する。これをどう捌くかに忙殺される。高い(と本人が思っている)権力者の視察ほど形式的で短時間で、とにかく中央からの統制がとれていることの再確認であって、現地の地図を持っている視察団などはみられなかった。ある災害では、中央が統制がとれていると満足している一方で、現地では殴り合いが起こったという風評がある。

『災害時のこころのケア サイコロジカル・ファーストエイド 実施の手引き』中井久夫による序文。

就活生・新社会人必見 気をつけたいマスクマナー7選

コロナ対策の基本として、すっかり私たちの生活に溶け込んだマスク。けれども、その社会的マナーについては意外と知られていません。特に、これから社会に出る就活生や新社会人のみなさんは、マスクをめぐる礼儀作法について不安になることも多いのではないでしょうか。今回は、そんなマスクマナーの基本を紹介します。

 

 

1  相手と場に即したマスクを選択しましょう

 社会人生活では「序列」が大切。マスクの品質や材質もその序列に応じて選択します。かんたんに言えば、自分より目上の方(上司や先輩、取引相手)のマスクよりも格下のマスクを着用するようこころがけましょう。

 具体的には、直属部署の長が不織布マスクを着用しているなら、新入社員は布マスクを使います。上司より高性能なマスクを使うのは不遜ですね。略式の序列としては、医療用サージカルマスク>不織布マスク>布マスク、となります。

 上司や先輩がどのマスクを使っているかわからない場合もあります。そうしたときは、もっとも格下であるアベノマスクを着用して出社しましょう。これより性能の低いマスクはありませんから、上司や先輩に対して失礼にあたることはありませんので安心してください。

 

2 マスクの色には要注意!

 品質・材質と並んで覚えておきたいのはマスクの色です。マスクの色は古代日本の伝統である冠位十二階制に倣います。

 冠位十二階制は「大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信」に位階を分け、徳・仁・義・礼・智・信にそれぞれ紫・青・赤・黄・白・黒を当てたとされます。また、大小の区別に濃淡の区別が対応します。したがって黒のマスクはもっとも格下を表示するので無難ですが、さらにマナーをわかっているビジネスパーソンは薄黒のマスクを着用します。重役が青や赤のマスクを付けて集まる会議であなたが薄黒のマスクを着用して登場すれば、その奥ゆかしさにきっと好印象を持たれるでしょう。間違っても濃い紫色のマスクを付けて出社すべきではありません。

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小野妹子レベルなら紫マスクもアリです



3 場に応じた感染対策ファッションを!

 ここまでマスクの品質や色のマナーを学びましたが、マスクはあくまで簡略な感染対策です。日常場面ではマスクで問題ありませんが、入社式や成人式、また冠婚葬祭など改まった場面ではより正式な感染対策衣装が求められます。

 たとえば入社式や親族の(もしくは自分の)結婚式などでは、これから同僚や親族となる方々に対して決してコロナウイルスを感染させないという決意を示すために、軍用規格のガスマスクを着用して臨みます。

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昭和初期の入社式の様子。日本の伝統を守っています。

 就活生にとって気になるのが会社説明会やOB訪問。「カジュアルな服装でお越しください」と言われていたのでマスク着用で訪れたら、ライバル就活生はみんなタイベックススーツで集合していた…なんて話もよく聞きます。説明会の途中でタイベックススーツを脱ぐよう求められることもあるため、念の為スーツ・ネクタイをきちんと着込んだうえでタイベックススーツを上から着るようにしましょう。

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社会人になるための第一歩。


4 ハイブリッド会議ではどうする?

 マスクと並んでコロナ禍で日常の一部となったのがオンライン会議です。対面ではマスク着用、Zoomなどオンライン越しではマスク無しが基本であることは言うまでもありません。ここで問題になるのが、会議参加者の一定数は対面参加、一定数はオンライン参加という「ハイブリッド」形式の会議やイベント等の場合です。ハイブリッド形式ではマスクを着用すべきでしょうか、外すべきでしょうか。

 こうした状況で押さえておくべき原則は、目上の方がおられる方に合わせるということです。つまり、たとえあなたが対面会議室で参加していても、Zoom参加者の中に対面会議室の面々より目上の方がおられたら、そちらに合わせて会議室側でもマスクを外します。逆に、仮にあなたが自宅からZoomで参加していて、一人暮らしの部屋なのでマスクが要らなくても、対面会議室側にもっとも上席の方がおられたならばあなたもマスクを着用します。

 

5 マスクの付け方・外し方

 わかっているようで忘れやすいのが、TPOに合わせたマスクの付け方や外し方です。まず、片手の小指にさっとマスクの紐を掛けて着脱する様子がよく見られますが、これはマナー違反。もっとも細く小さい指である小指でマスクを扱うことで、新型コロナウイルス感染症を甘く見ているという印象を与えてしまいます。

 正式な手順は次のようになります。まず左手でマスクの左頬側を軽く押さえ、そのまま右手の親指と中指で紐を掴んで耳から外し、ついで右手で右頬を押さえて左手で左の紐を同様に外します。外したマスクを軽く二つ折りして左手で持ち、右手で袂からマスクケースをそっと取り出して静かに入れ、袂に入れ直します。

 ただし、お葬式や謝罪会見など、ネガティブな場面では上記手順の左と右を入れ替えます。お葬式で右耳から紐を外すと、ご遺族に対してきわめて非礼に当たりますのでくれぐれも気をつけてください。同様に(あまり体験することはないですが)謝罪会見中に右耳からマスクを着脱してしまったならば炎上必至です。当人や謝罪する企業・団体の社会的な死を意味するでしょう。

 

6 覚えておきたい令和のマスク仕草「マスクかしげ」

 マスクは飛沫感染対策に有効ですが、両目以外の顔を隠してしまうため表情がわかりづいらいのが難点です。せっかく感染対策を万全にして相手にお会いできたのに、表情の機微が伝わらずコミュニケーションが不全に陥ってしまったら残念ですよね。

 それを防ぐため、マスクをしていても、こちらが笑みを誘われたら片手でマスクの口元をそっとずらして口角を相手に見せ合いましょう。これは有名な江戸しぐさの「傘かしげ」に倣い、「マスクかしげ」と呼ばれます。

 

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左右対称になるようマスクをずらしましょう

7 鼻マスクにはどう対応?

 マスクは鼻と口を覆って初めて十分な効果をもたらしますが、とくに日本の中高年男性には口だけをマスクで覆う「鼻マスク」型の着用をしている方も多くおられます。鼻もきちんと覆ってほしいものですが、面と向かってそのことを指摘するのは難しい場合が多いことも現実です。では、どうすればいいのでしょうか。相手の気分を害さず、なおかつ有効な感染対策を維持することこそマナーの役割です。

 答えは簡単です。相手が鼻マスクをしていたら、自分もマスクを鼻の下までずり下げて「鼻マスク」状態にします。こうすることで、相手に合わせ、相手と同じ空気を吸うという協調的な意思表示をしつつ、あなたのマスクはこのように下がってしまっていますよと奥ゆかしく伝えることができます。相手がそれを感じ取ってマスクを鼻まで引き上げたら、自分も少し遅れて同様に引き上げましょう。この際、自分が引き上げなおすタイミングも大切です。相手に合わせて即座に引き上げてしまうと、いかにも相手の間違いを指摘・指導したという雰囲気を与えてしまうでしょう。そのため、むしろ自分が相手に気づかせていただいたという印象をもたらすよう、微妙に遅れたタイミングで引き上げるのがポイントです。

 

いかがだったでしょうか。わかっているようでわかっていなかったマナーも多かったかもしれません。以上のマナーを再度確認して、安全安心な社会を実現させましょう!

『風の谷のナウシカ』とは正反対の選択――『人形の国』9巻

1巻から楽しみに読んでいた弐瓶勉『人形の国』が本日発売の第9巻で完結した。8巻末尾の時点でかなり登場人物や状況が拡大していたので、最終9巻でどう畳むのかと思っていた。実際に読んでみると、やはり大急ぎでラストに突き進んでいるという印象を持つけれども、著者の当初からの予定どおりだったのかもしれないとも思う。連載打ち切りだったのか云々を推量することは作家に対して非礼だろう。

 

ところで本作はコミック版『風の谷のナウシカ』を意識した作品のように思う。絵柄や世界観や物語設定に近しいものを感じるし、一部の挿話的なエピソードにも似たものがある。

そのため、一読者の勝手な読み方ではあるけれど、『ナウシカ』を下敷きとしてこの物語を読んでゆくとき、最後の展開がどうなるのかに大きな興味があった。そうして『人形の国』最終巻を読むと、ちょうど『ナウシカ』と正反対の選択が為されたと思った。その対比が面白いので、以下整理して書いてみる。

(以下、両作品の末尾の流れをたどりながら書いています。)

 

『ナウシカ』では、トルメキアと土鬼の両帝国が消耗する決戦のなか、ナウシカと巨神兵オーマは「墓所の主」に対峙し、墓所が準備した世界再生のプログラムをナウシカは否定する。墓所のプログラムでは、ナウシカたちが住む世界に広がる腐海や攻撃的な蟲たちも、「火の七日間」(あるいはそれ以前から続く工業活動も含めた)による汚染を浄化する装置であり、長い長い期間を経たあと、最終的に浄化された世界が人類に返還されることになっていた。いまの人類自身の身体も腐海の毒に対応するよう改造されている。墓所の技術によって人類の身体を清浄化した世界に再対応させなければ、その世界に入った現人類はすぐにでも血を吐いて死んでしまう。この墓所のプログラムが完了したあと、そこには平和で汚染の無い世界が広がり、その内部では穏やかで賢明な新人類が悠久のときを営むことになる。

ところがナウシカはそのプログラムの核心を理解したうえで、「生命は闇のなかの瞬く光だ」と言い放ち、墓所の主とその技術を旧世界の大量破壊兵器である巨神兵オーマの力によって消滅させる。たとえ未来の清浄な世界から拒まれようとも、いまの腐海、蟲たち、粘菌、そして地上の人間たちの生命そのものの「またたき」に立ち戻る。太古から仕組まれた、至福の世界を約束する賢明なプログラムに保護されて生きることを望まない。

 

『人形の国』9巻の展開を追うと、ナウシカの選択とはちょうど正反対に決着する。登場人物の多くは戦死するが、その生体情報は地下世界アポシムズに保存されている。そこはナウシカの「墓所の主」が保証するのとほぼ同じ、平穏で理想的な世界である。タイターニアはアポシムズの管理者であり、墓所の主と基本的に同じ立場である。

主人公エスローと最終ボスであるスオウニチコは、結果的に、いずれもアポシムズへの帰還を目指すことになる。ただしスオウニチコは自らの野望を優先し(必ずしもその核心は描かれていないので、エスロー/タイターニアと彼が対決する必然性が不明瞭なままなのだけれど)、アポシムズを消滅させようとする。反対にエスローは、タイターニアの案内に反発することなく、(いちど死んだ)地表の人々がアポシムズに帰還することを助ける。タイターニアが墓所の主だとしたら、エスローは墓所の主に力を授けられ、そのプログラムに助力する土鬼皇弟・皇兄に近い。エスローはタイターニアとアポシムズに疑問を持たず、それが保証する平和で静かな世界にたどりついてしまう。

(『人形の国』9巻の最後のコマは、ナウシカがセルムに案内されて腐海の尽きる土地に足を踏み入れたときの「土がある」というコマにかなり似せて描かれているように思える)

 

あるいは、ケーシャとエスローは再び2人でアポシムズを出て、かれらの国を再建するのだろうか。タイターニアがそれを許すのか。そこが本作品の本当の決着点なのだろう。その緊張感を暗示しながらの、仮初の大団円ということなのかもしれない。

 

『春と修羅』ノート(「序」その3)

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

「わたしといふ現象」は「ひとつの青い照明」である、と言う。照明そのものが、その明滅において自らを語る。その照明を灯しているのは「仮定された有機交流電流」であり、「因果交流電燈」である。はじめは交流しているものが「有機」であると言われた。つまり照明の源泉となるものが、宇宙に偏在する物質であることが語られた。ついで、その電燈は因果交流電燈でもあると言われる。交流するものは物質だけでなく、因果でもある。交流は双方向のやりとりであり、電燈はその経由地点の一つにすぎない。ある方向から原因が流れ込み、結果がつながってゆく。逆の方向から原因が流れこみ、結果が生じてゆく。電燈はその結節点であり、その関わりによって「ひとつの青い照明」が灯る。

そうして2回繰り返して「わたくしといふ現象」が「…です」と言い切ったのに、それを追う声は「(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」と語る。電燈抜きの光などありえるのだろうか。ひかりはもはや電燈を必要としない。ひかりはたもつ。保つとは、その主体がみずからを気遣い、変わらず存在するように工夫することである。ひかりはただ明滅しているだけでなく、「風景やみんな」といっしょに淡くおのれを存在させながら、ただ一方通行に照らすのではなく、自分自身に向かい、たもつ。電燈は失われる。有機と因果が交流する場であった電燈はついに時間の経過に耐えられず摩耗し、失われる。ひかりは残り、自らを保つ。そのようなことは可能なのだろうか。それは詩人の願望にすぎないのではないか。

これらは二十二箇月の

過去とかんずる方角から

紙と鉱質インクをつらね

(すべてわたくしと明滅し

 みんなが同時に感ずるもの)

ここまでたもちつゞけられた

かげとひかりのひとくさりずつ

そのとほりの心象スケッチです

 

『春と修羅』ノート(「序」つづき)

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

「幽霊の複合体」は、けっきょくよくわからない。「わたくし」は確実な実体というより、いまさしあたりあらわれている現象であり、照明である。その明滅的な宣示を、「あらゆる透明な幽霊の複合体」という声が追いかけてくる。照明とはいえ「わたくしといふ現象」はいまこの紙上で生きているが、幽霊は過去からのもの、死んだものである。

次の行に進んでみる。「風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」。仮定された有機交流電燈の照明は「せはしくせはしく」明滅している。確実で恒常的な直流電流が送り込まれ続ける電燈からの照明ではなく、リズムは保たれているけれど確実なものは保証されていない照明が自らを照らし出し、消えてしまい、また照らし出す。それは照明が独立自存したものではなく、交流のリズムや不安定さを送り込んでいる別のものとの関係によって照明が灯っているということでもある。照明が自らの力で煌々と輝き続けるなら、それは神仏の無限の光である。「わたくしといふ現象」は自分以外のものとの接続によってやっと成立している。

その明滅はただ照明のみの状態の記述ではない。「わたくしといふ現象」は、「風景やみんなといつしよに」明滅する。照明が明滅すると、「風景やみんな」もいっしょに明滅する。照明が明滅しなくても「風景やみんな」が変わらずあるのではない。照明が届く限りにおいて「風景やみんな」は灯り、照明が消えると「風景やみんな」も消える。照らすものと照らされるものは距離があり、別々の存在であるけれど、明滅は同時である。ひとつの照明のなかで両者が別々に際立つ。その明滅のなかで作品が描かれている。(明滅の主導権は果たして照明にあるのだろうか。)

ここまで「照明」が、その成立において独立自存したものではないこと、さらにその照らし出しにおいても独立自存したものではないことを強調してきた。けれども、その照明は「いかにもたしかにともりつづける」ものでもあると言う。「せはしくせはしく」明滅していることは、それが脆弱なものであることを意味しない。

『春と修羅』ノート(「序」)

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

この「序」は詩集『春と修羅』全体の表現の前提を示そうとしているように思える。ただしその序文そのものが詩に既に近づいている。序文が散文による規定で完了するなら、そもそも詩集本編を詩という形式で描き出す必要は無くなるだろう。他方で著者はすぐに詩の本文から詩集を開始することができない。それは、詩そのものをそれだけで読者は読むことができない、と著者が想定しているからかもしれない。そこで早くもジレンマが生じる。詩への入り口だから詩として書くことはできないけれど、散文で書くこともできない。だから詩集を読みすすめるにあたって読者に把握しておいてほしいことを、すでに詩への入り口として半ば詩として、半ば散文として書くことになる。

その序文は、著者である「わたくし」の説明から切り出される。読者と著者が求めるのはあくまで詩であって、「わたくし」の表明ではない。けれども、詩集の入り口として、詩がいかにして書かれ・読まれるかを説明するためには、書き手である「わたくし」のことを説明しなくてはならないと著者は考えている。それは、創作行為と著者の存在に切れ目が無いからだ。著者がただ人格や肉体としてドスンとそこに置かれていて、任意に詩を書いたり書かなかったりするのではない。書くことで「わたくし」が浮かび上がってくる。「わたくし」には書くことの歴史が畳み込まれている。

「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」。まず「わたくし」という主語らしきものが出てくるけれども、それはやはりなにかから切り離されて独立自足しているものではない。それは「現象」であるという。「わたくし」がまず存在して、それがときたま「日本人」や「男性」であったりするのと同様に「現象」であるのではなく、「わたくしといふ現象」がセットでひとつになっている。むしろ、「わたくし」はより広く把握されざるをえない「現象」の一形態である。しかも、わたくしがわたくしという現象なのではなくて、「わたくしといふ現象」がさらに述語を必要とする。表現が、しかも詩による表現が無ければすぐにでも立ち消えてしまう「わたくしといふ現象」。それは「ひとつの青い照明」であるという。そして「わたくしといふ現象」が「ひとつの青い照明」である、と命題のかたちで読み手に説明することでやっと、「わたくしといふ現象」が紙の上で定位置を得る。その命題が紙の上に活字として転写されているあいだのみ、それが読者に読み取られているときのみ、「わたくしといふ現象」がやっとほのかに青く浮かび上がっている。

その照明は「仮定された有機交流電燈」の照明である。照明は暗闇のなかで自ら明るくなってそれそのものと周囲を同時に照らし出す。周囲の物体や自分の手のかたちが影と共に浮かび上がる。周囲の物体や自分のからだは質量やかたちを持っているけれど、「照明」そのものはそうではない。照明はそれ自体で人魂のように光ることはできず、電燈という装置によってはじめて成立する。交流は周波数を持ち、電流の正負がずっと交代している。上流から下流への滔々とした流れではなく、いったりきたりのリズムによって成立している。いったりきたりするものは電流かと思いきや、「有機」であると言う。有機物は畑と空気、土を循環して人間や生物の体内に摂取され、排出され、不断に入れ替わっている。すこし後に登場する「宇宙塵」と同じ意味がおそらく託されている。有機交流によって、自然、大地、大気と身体が関わり合い、電燈として機能している。しかしその電燈自体が「わたくし」なのではない。著者がまず説明するのは、「わたくしといふ現象」が「ひとつの青い照明」であることであり、電燈は照明としての現象の前提ではあるけれど、本質ではない。照明の側からすれば、「電燈」は自分自身の根拠でありながら、自分によって照らされて初めて見えるようになるものであり、自分が消えてしまえばもはや電燈も認識されることがない。電燈が照明を生み出しているのではなくて、照明が照らし出しているあいだだけ、電燈はその参与者として認可されている。だから本当に電燈が照明の根拠や母体であるのか、照明には判断がつかない。理屈でいえばおそらくそうであろう、とまでしか言えない。だから「仮定された有機交流電燈」としか言えない。

「わたくしといふ現象」は、自分自身を描き、照らし出しながら、やっと「ひとつの青い照明」であることを描き出す。描き出すことと描き出されるものと描き出しているものが区別できない。とはいえ、そうして「わたくしといふ現象」は自己規定に成功する。ところがそのあとすぐ、「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」という声が重ねられる。これは誰が言っているのだろうか。書いているのはたしかに著者である。しかし「わたくしといふ現象」は、みずからが「照明です」と宣言しているのだから、もし追加で自ら説明したいなら「そしてまた、わたくしといふ現象はあらゆる透明な幽霊の複合体でもあります」と述べればよい。実際、この次の行では「因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」と記述を重ねる。そのように言うのではなく「複合体」と、誰の声でもなく説明が重ね書きされる。「わたくしといふ現象」は「ひとつの」青い照明だから、別の「わたくし」はいない。だから何者かが勝手に説明を付け加える。しかも、「あらゆる透明な幽霊」の「複合体」だという。まったく「ひとつの」照明ではない。そこで、照明としてはひとつだけれど、その来歴が述べられていると考えなくてはならない。しかもそれは、たとえば著者に関連する幽霊だとか、著者の前世だとか限定されたものではなく、「あらゆる」透明な幽霊がそこに重なりあい、「複合体」を成している。透明なのでどれだけの数が集まっても透明である。なのに「青い」。だから本来、「ひとつの青い照明」であることと、「あらゆる透明な幽霊の複合体」であることは簡単に結びつかない。幽霊の複合体であると付け加えられることで、「わたくしといふ現象」や読者が説明の完結を与えられて安堵するのではない。照明が透明な幽霊を照らし出すこともない。「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」という声は「青い照明」以上に根拠が無くて、だからこそはっきりと覆いかぶさってくる。