しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

直角直角で座る

奥さんがスーパーで食料品を買っているあいだ、こどもとイートインスペースのカウンター席に座って待った。オレンジを絞ってジュースにする自動販売機が隣にあって、さいきんこのオレンジ絞り機はどこにでもあるなぁと思った。初めて見たのはハーバーランドにあったもので、オレンジの皮をぴーっと切って4,5個絞るのだと奥さんに教えられた。こどもはそれを飲ませてもらったという。特別で贅沢なものに思えたが、案外どこにでもあることを知ってありがたみが無くなった。

カウンター席の椅子はこの自動販売機を背にしているので、こどもの視界には入らなかった。奥さんを待つ間、iPadを開いて蒸気機関車のYoutube動画を見せた。それを見ているこどもの座る姿勢が、たいそう折り目正しい美しい座り方だったので、世の中にはこんな正しい座り方が実在するのかと驚いた。太ももと脛が直角、腰と椅子の座面も直角を成している。座り方のイデアが現前しているではないかと思った。しかしそういえば、こどもが普段座る姿勢を気にしたことが実はなかったかもしれない。別にiPadとYoutubeが無くてもたいてい折り目正しく座っているのかもしれない。いま書いていて、気にしていなかったということに気付いた。

ケースに入っている

わたしの転職と引っ越しに伴い、こどもの保育所も転園となった。入園前の健康診断も行き直すことになった。仕事を2時間早退し、こどもを保育所から引き取った。チャイルドシートに乗せて自宅に戻る最中、こどもが泣き出した。ファミレスの駐車場にいったん入ってこどもを車から降ろし、ペットボトルの水を飲ませて気持ちを落ち着かせた。チャイルドシートに一度乗せる・降ろすだけで汗で肌着がへばりつく。このチャイルドシートというもの、こどもにはきわめて理不尽で不快なものなのだろう。わたしは乗ったことがないからわからない。

 

自宅で牛乳を飲ませ、おしめを取り替えてまた車に乗る。小児科に向かう。ぐずり始める。赤信号で停車中、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、最速で検索する……「はたらくくるま」か?「踏切」か?いやここで頼るべきは「アンパンマン」。トップに出てきた動画を選択し、チャイルドシート上のこどもスマホを渡して運転に戻る。Bluetooth接続されているのでジャムおじさんの声が車内に響く。

 

右折、左折、右折、左折、小児科に着く。歩き回ろうとするこどもの頭や肩を押さえつつ問診票を書く。受付に渡し、名前を呼ばれるのを待つ。

母親らしき女性が、3ヶ月くらいの赤ちゃんを待合室の乳児用ベッドに寝かせた。産婦人科にずらっと置いてある、あの透明なプラスチックのケースである。女性は赤ちゃんをケースに寝かせて、自動会計機の操作を始めた。母親の体温が離れたのに気づいて、赤ちゃんはふにゃりうにゃりと泣き始めた。

 

こどもはケースのそばに立って、赤ちゃんを見始めた。不思議そうな表情をしていた。こどもも2年前はこのサイズのケースに寝かされ、眼をしばたたかせたり、しゃっくりをしていた。もうケースに寝かせても収まらない。足がはみ出る。こどもは起きているあいだずっと何かを喋っているのだけれど、ケースの中の赤ちゃんを見ているときだけ、だまっていた。人間という生き物の来歴について熟考していたような気がするが、それは単にわたしの想像である。

 

 

 

お砂糖ぽとんする

朝、夫婦ふたり分の紅茶を淹れる。2つのカップにそれぞれティーバッグを入れて、わたしのカップだけ角砂糖を入れ、お湯を注ぐ。

けさ子供がその様子を見て、「ハルもおさとうぽとんしたい」と言った。

角砂糖をカップに放り込むという作業をしたかったらしい。

そうなん、どうぞ、と妻が言って、カップの底から角砂糖をつまみ出し、こどもに持たせると、こどもは受け取った角砂糖を再びカップに落とした。こつん、という音がしてこどもは満足したようだった。そして妻が2つのカップにお湯を注いだ。

 

いちど放り込んだ角砂糖をカップから取り出して放り込み直すというのは無駄ではあるのだが、こどもはそれをやりたかったらしい。とにかく自分でやってみる必要があったのだろう。自分がやってみたら角砂糖がカップの中で浮遊するかもしれないし、別宇宙に消えてしまうかもしれない。それらの可能性はひとつずつ潰す必要がある。いわば、宇宙の挙動を確認する仕事である。ほかのひとには任せられないのだろう。

 

わたしは紅茶を飲んで、東京の大学に就職した元同僚に統計処理のことを教えてもらいに行った。こどもと妻は保育園に行った。

だっこリアル

さいきん神戸市はちょっと正気ですか?というくらいハーバーランドらへんで花火をぼかぼか上げていて、今週はずっとメリケンパークで6時半から15分くらい打ち上げるらしいです。それで先日、奥さんと子供の3人でメリケンパーク近くまで歩いてって、わりと近くから花火を見せた。

打ち上げ花火なんで、弾がひゅーっと風を切る音とか、光の広がりから半拍遅れてドンって音が聞こえるのがなんかリアルやなーって見てた。こどもは後半飽きてきたんだけども、なんかいろいろしゃべったり感嘆の声を上げたりしておった。遠くから光だけ見るのとはまた違って、特に音がリアルなかんじが良くて、連れてきてよかったなぁと思ってスマホで写真しゃこしゃこ撮ってた。

そんで、なにが「リアル」なんかなぁとぼんやり考えてたのですが、戦争映画っぽいなぁ、こういう「音」がするよなぁと気づいた。戦争映画っていうか戦争ってたぶんこういう音もするんやろなぁ、と。弾が風を切る音、半拍遅れる「ドン!」って音とか。地球の別の場所で2箇所で同時にリアルというか本物の戦争やってて、爆弾落としたり打ち上げたり機関砲撃ったり、そういうことをしているのに花火を楽しんでる自分は何なんだろう……とわざわざ意識高いっぽく考えるのも難しくて、まぁ花火も楽しんでこどもも嬉しそうで良かったなという感想と、本物の戦争してるよなというこれもぼんやりした意識が混じり合うことも区分されることもなく漂ってて、戦争してるよなぁ、戦争…という感想にしかならなかった。

そのこどもが昨日、下痢になったんで病院に連れていって、待合室にいるときはあまり考えなかったのだけれど帰宅してから(仕事はほぼできてない)病院に爆弾が落ちて500人死んだとかいうニュースを思い出した。どうもニュースの信憑性が怪しいようだという続報が入り始めたのは今朝方のことで、そのときは病院になぁ、ぼくらも病院行ってたけどなぁ……と、これまたリアルでも妄想でもない感想にしかならなかった。私とこどもが両方巻き込まれてもキルカウント「2」にしかならず、あと250組必要である。

薬局に寄るのを忘れたので、こどもが昼寝から醒めたら商店街を歩いて薬局に行った。半分ほどはこどもが歩いて、半分は抱っこして移動した。さいきん、抱っこ中もこどもの腰が座って両手両足でこちらの体を掴んでくれるので抱っこしやすい。

いま空襲警報鳴ったら、ハマスの浸透兵が銃を乱射してきたら、ロシア軍の機甲部隊が乗り込んできたら、この抱っこの姿勢のままだーっと逃げるんやろなぁとおもう。テレビのニュースに映る避難民もだいたいそういう抱っこをしている。だーっと抱っこしながら逃げるとき、なんかリアルやなぁってぼんやり思うのかもしれない。思わないかもしれない。いまも何にしろぼんやり思ってるだけなんで。津波とか大規模火災とかでも自分はそんなふうに逃げるんかな。そのあとコメダに寄ってアイスコーヒーと小倉食パンを食べた。こどもは食パンを半分みしゃみしゃ食べた。

いやいやの主体

1歳半が近づき、こどもの「いやいや」が増えてきた。

増えてきたというより、キレが増してきたというほうが正確だろうか。首の振り方に俊敏さと力強さがこもっている。首をぎゅぎゅんと振り、握ったものを渡すまいと両手を左右に振り、軟体動物と化して床にへばりつく。こちらの両手でこどもの両脇を抱えているのに持ち上げられない。重心の移動や体軸の回転といったボディコントロールに感心する。普通に「だっこ」されるときは相当に抱き上げやすいようにコントロールしてくれていたのだとも気づく。感心している場合ではないのだが。

「いやいや」が目立ってきたのは、こども自身の身体能力や認知能力の発達と関係があるのだろう。いろいろなものに手が届くようになり、登れるようになり、気づくようになる。それだけ危険なものへのアクセスが増える。すると親の介入が増える。こどもにとっては、せっかくできるようになったことが増えたのに、それ以上に禁止されることが増える。その反動としての「いやいや」。

しかしこどもの様子を見ていると、何か特定の意図やモノを守りたくて「いやいや」することはむしろ珍しいようでもある。むしろ「いやいや」が先にある。「自分」の意志や意図や目的があり、その表現や帰結や手段として「いやいや」をするのではない。「いやいや」が先で、言ってしまえばいやいやをする「自分」もいない。

先日、「いやいや」をした直後にこどもがふっと不思議そうな表情を見せた。あまり激しい「いやいや」ではなく、わたしが勧めたスプーンにふるふるっと首を振って口に入れることを拒んだだけである。ただその直後、わずかに宙を眺めて静止していた。それは「いやいや」をした自分の存在に内側から気づいたというような顔に見えた。「いやいや」はこどもから私への意思表示だが、そのすぐ後、どこに向けたら良いのか容易に把捉できないなにかにこどもは向かい合わされていた。

「いやいや」は周囲を拒絶する。拒絶して世界から切り離されたとき、そこに残っている何か。大人はそれを「自分」や「主体」と名付けて飼い慣らしているつもりになっている。けれどこどもはそうではない。初めてそれに出会っている。それはまさに「いやいや」を為したところのものである。しかしそのそれは「いやいや」の前にはいなかった。「いやいや」を通じて、その主体としか呼びようがないものが存在することが自分に示された。示されたものはまさにその自分自身で、指差すことができない。いつも興味を向いたものを指さして「これ」「これこれ?」「これー」と言っていたこどもが、そのときだけは主体のやわらかさの分だけ沈黙していた。

いやいやが達成される直前まで、いやいやの主体は存在せず、いやいやそれ自体がこども自身だった。だがいやいやが達成されると、いやいやは突然こどもに主体をひきわたす。いやいやをしていたのはきみ自身だったのだよ、とこどもは告げられる。そして「いやいや」自身はあたかも最初からこどもの道具であったかのように身を引いている。だがこどもはどこを探しても「いやいや」それ自体がどこから与えられたのか突き止めることができない。その代わりに「いやいや」を握りしめたじぶんに出会わされる。不敵な自信と、戸惑いと、世界から切り離されたさびしさといった感情がすぐにこどもに追いついて穏やかにまもる。

そのような場面に居合わせていた。自分ができることは特になかった。夜、お風呂にいれたら湯船から出るまいとイヤイヤして、浴室から出されたときは顔をおもいっきりくしゃくしゃにして泣いていた。そして穏やかに寝た。

 

グレーゾーンの身体――遠くて近い保育所のこと

4月初日から保育所通園(1歳児クラス)が始まった。当初は「慣らし保育」ということで、一日に数時間ずつ、だんだん伸びてGW明けごろからフルに登園という流れ。

そうして、おおむね5ヶ月が経った。この間に気づいたことを書いておくことにする。

 

保育所に通う前までは、「日中はこどもは保育所=両親はそれぞれ仕事などでフル活動」と単純に捉えていた。しかし違った。単純すぎた。

たしかに、こどもが保育所にいる間はわたしと奥さんは仕事に打ち込める。だがこの命題が成立するのは「こどもが保育所に登園できる」という前提をクリアしているときのみである。

こどもが登園する。これは偉大な事業である。この事業が成立するためには、こどもが健康で、両親の送り迎えの都合がつく、という条件が必須である。この条件がなかなか揃わない。よく知られているように、保育所に通うとこどもは病気をもらってくる。登園すると登園できなくなるという不条理。免疫をつけてゆくとはそもそもそういうことだと頭ではわかっているが、二週間ごとに発熱と回復をくりかえすのはストレスではある。

問題は、こどもが熱を出したりして登園できなくなることそれ自体ではない。本当のしんどさは、「こども=保育所、親=仕事」という切り分けが実際には非常にグレーゾーンになってしまうということだ。

月曜日から金曜日まで、わたしと奥さんはそれぞれ仕事の予定が入っている、としよう。お互いのスケジュールを共有して、送り迎えの分担も決まっている。この予定帳のうえでは、見た目のうえでは、「こども=保育所、親=仕事」という切り分けがすっきりできている。送り迎えの時刻に挟まれているので、独身時代のようにフル活動はできないけれども、保育所に預けている間はぎちぎちとがんばれる、というように。

しかし現実は、そう白黒はっきりと進まない。すべてのスケジュールが「実行できるかもしれないし、こどもの発熱で潰れるかもしれない」グレーゾーンのもとにある。今朝の体温は36.8℃だったぜOK、でも午後には38.℃まで上がったので引き取ってと保育所から電話がかかってくる!

保育所に通い始めるまで、わたしはこの「グレーゾーン事態」の存在を全くといって良いほど理解できていなかった。おそらく同様のことを書いた文章はネット上に大量にあるのだろう。わたしはそれをいくつも読んだはずだけれど、けっきょく理解していなかったのだろう。このグレーゾーンの感覚はなかなか頭で捉えられない。むしろ身体がだんだんと慣れてゆくもののようだ。これまで生きてきた身体そのものが白黒つけることに特化してきたが、突然に曖昧な身体に引き戻されている。

しんどいのは、身体がグレーゾーンに慣れても、予定や仕事自体は従来どおりの白黒の世界で進んでゆくということだ。高原さん水曜日の午後は空いてますよね、予定を入れて良いですか?と聞かれたら、ハッキリOKと答えるほかない。論文などの〆切も当然明確に定まっている。

だから、身体のなかに二つのゾーンが同居するはめになる。グレーゾーンの身体と白黒に切り分けてゆく頭。どちらかに寄せることは不可能である。「白黒」と「グレーゾーン」の中間のゾーンという都合のよいものは存在しない。だから、そのつど使い分けたり、強制されたりする。二つのモードの並行、これがとにかくしんどい。数ヶ月かけてやっとそのことに気づいた。

(もうひとつの問題は、学会や動かせない出張などではけっきょく白黒の維持を断行することになるが、その際は奥さんにワンオペを強いることになる、ということである。わたしがワンオペを引き受けることもあるが、割合でいえばずっと少ない。グレーゾーンのしんどさを押し付けているわけである。)

 

関西弁で『ぐりとぐら』

きのうの朝、こどもが絵本を掴んで渡してきた。保育所に出るまでまだ時間があったのでその『ぐりとぐら』を読むことにした。こどもがわたしのあぐらのなかにすぽんと座り込んだ。

いつもは書いてある文章をそのまま読むのだけれど、そうしなくてもいいかと思って、絵を見ながら即興でこどもに話すことにした。

特殊なことをするのではなく、めくったページに出てくるものをひとつずつこどもと確認するだけである。

「お、ぐりとぐらが出てきたな~」

「ぐりとぐらは2人でおでかけすんねやて」

「あら!たまごがでてきたなぁ~ おっきぃなあ~」

「つるつるすべるんやって。たまごもってかえれへんなぁ~」

「お! ぐりとぐら2人とも一回いえに帰ったで」

「ボールとか、フライパンとか、ふたも持ったなぁ~ バターもあるなぁー」

「たまごわるねんて。ぐーでたたいてみよか。いた! いたいなぁー われへんかってんて~」

「いしでわろかー」

「こっちで火おこしたんやって」

「お、いろんな動物やってきたなぁ~」

「ワニもトカゲもおるなぁ~ これうさぎさんやなぁ」

「お! カステラできたなぁ~ おいしそーやなぁ~」

「みんなたべとーなー ハルもちょっともらおかー はいどうぞ、もぐもぐして」

「あ、くるまつくって帰ったんやなー」

意外と自分がこてこての関西弁を話していることに気づく。