しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

引っ越しの整合性を探求する

こどもが本格的な「なぜなぜ期」に入っている。全てに「なんで」と問うてくる。たいていは他愛のないものだが、こどもがずっと繰り返し問うている「なんで」がある。

 

「なんで金沢に引っ越したん?」

 

という問いである。かれにとってこの問いは反復すべき意義のある大きな謎であるらしい。事実を先に整理しておくと、2024年の3月に神戸からつくばへ、2025年の3月につくばから金沢へ、わたしたち家族は短期間に2度の引っ越しを経験した。

神戸→つくばの引っ越し時、こどもは2歳だった。そのことはどうもはっきり覚えていないらしい。しかし金沢への引っ越しを終えて約半年たった今、かれは少なくともつくばから金沢へ移動したこと、以前はつくばで生活していたことをはっきりと認識している。上野駅の地下ホームでかれは初めて本物の新幹線を目撃した。それに乗り、見知らぬ土地へ連れて来られた。そこは踏切を思う存分観察できる街だった。

 

なぜ、自分は金沢にいるのか。

 

数日に一度、かれは父親にこの問いをぶつける。

「とっとが金沢の大学でお仕事するようになったから」という答えが返ってくる。

「なんで金沢の大学でお仕事するの?」

「能登で地震が起きて、いろんなひとのおうちたくさん壊れたでしょ。そのひとたちを助けるの」

わかったような、そうでないような表情をする。

 

引っ越しに伴ってかれが発見したことのひとつは、自宅のお風呂環境が飛躍的に改善されたことである。つくば時代、築45年の官舎のお風呂は狭かった。お世辞にも美しいとは言えなかった。*1

金沢の新居のお風呂は、広くてきれいである。

 

なぜ、お風呂が大きくなったのか。

 

引っ越しへの問いとお風呂の問いをこどもは重ねる。

「とっとは、大学でお仕事するの?おっきーいお仕事なの?」

「せやな。忙しいな」

「なんでお風呂が大きくなったの? つくばのお仕事は、小さかったから、お風呂が小さかったの?」

「そういうわけではない」

 

引っ越しでお風呂が大きくなったこと、父が転職したこと、この2点の整合性を探ることで、こどもは引っ越しの謎を解こうとする。

こどもは、論理的である。ただその論理の集め方が、大人と同じではないだけである。

能登半島のひとびとが大きなお風呂でゆっくりできるように父はがんばりたいと思う。

*1:引っ越した最初の週、妻に「3年が限度」と通達を受けたが、一応その約束は果たしたことになる。

よく食べている隣に座っている

新潟に来ている。駅前の繁華街の韓国料理屋にひとりで入り、ビールを頼み、あれやこれやと料理を注文して食べ、ビールをもう一杯頼み、だいぶ満腹になった。

そのころカウンター席の2つ隣に、やはり一人で座った若い男性が飲み放題を宣言し、次いでサムギョプサルを注文した。サムギョプサルは2人分からの注文を承っておりますというルールである。かれはそれを承知したうえで、2人分のサムギョプサルを焼き始めている。関係する小皿も2人分なのでカウンターが一杯になり、それを順次平らげてゆくようである。2杯めのビールを飲み、豚肉を焼く。おそらく3杯目以降も飲み干すのであろう、サムギョプサルの他にも食べるかもしれない。誰にも邪魔されず、ひとりで焼き続ける、飲み続ける。

畏敬の念にも似た感情を覚える。わたしは席を離れた。飲み食いの量で競争をするとか、勝ち負けを言うのではない。わたしも食べた。満腹になり、満足である。臨席の青年はさらに偉大なる満足を腹に収めるにちがいない。なんだか嬉しかった。

台風で新幹線が止まらなくてよかった

結果的に水を運びつづける

研究室に常備している飲料水ペットボトルを飲みきった。帰宅時、自宅そばのドラッグストアで同じ箱を買った。500mlのペットボトル24本が入っている。それを自家用車のトランクに入れた。翌朝、出勤時に研究室に運び込むつもりだった。

だが翌日から集中講義が始まり、研究室に行くタイミングを失った。集中講義の教室は理工系の大教室で、早朝から夕方まで講義が詰まっている。わたしは講義は担当しないが授業全体の監督のため教室に詰めておかねばならない。

こういうわけで、この5日間、12kgのペットボトルの箱が車のトランクに置かれたままになっている。キャンパスまでの坂道を車で上り下りするたび、無駄な仕事をかけているなあとおもう。ブレーキが甘いままカーブを曲がると、段ボール箱がトランクでざすっとスライドするのがわかる。存在感がある。しかし愛着はない。ただの水、ただの箱なので。

ことばが対流する

インタビュー調査が終わって、聞いたことについてあれこれ考える。こういうことかな、こういう話でもあったのかな、あの工場というのは具体的にどこのことなのだろう……と、あれこれ考える。ところが次第に疲れてきて、頭で整理するのを止めてしまい、ただ聞いたことばだけが身体のなかにざーっと対流する。袋に注がれた。銀色の小魚の群れが身体の内側を泳ぐ、星々を抱えた霧が充満する、ぽたぽたと雨が振り続ける。そこからまた、語られたことばが表情を伴って浮かび上がってくる。そういう時間がある。

いいかんじの看板

 

すたすたの車内販売

福島でのインタビュー調査のために「ひたち」に乗ると、車内販売が復活していた。ちょっと前は車内販売はありませんと駅のホームにも大書していた記憶がある。近年は新幹線からもずんずん消えているのでありがたい。コーヒーが熱いのが好き。

ところが今日の車内販売の売り子さんはカートを押して歩くのがわずかに速い。なにか買おうかな、と横目でカートの側面を見るともう2つ先の座席へ進んでいる。すたすたと歩いてゆく。何度かカートは来たが、そのたびに買い逃した。

普段の車内販売の売り子さんは独特の、絶妙な速度で歩いていたのだなと気づく。すたすたではない。かといって牛歩では車内を巡回できない。声を掛けようかなという逡巡から挙手までのわずかな時間のあいだだけは十分に視界内にいるという速度。車内販売がゆったり動いていると、それにつられて旅の速度もスローにしよう、なにか注文しようかという気分になるのかもしれない。遅すぎても速すぎてもいけない車内販売の巡航速度がある。練習が必要なのだろう。

両端揃えの愉悦

Wordの「段落」リボンに、「左揃え」「中央揃え」「右揃え」「両端揃え」の4つのボタンがある。

初期設定では両端揃えだが、たまにいつのまにか左揃えになっている。Wordでこちこちと文章を打っている途中、左揃えになっていた段落を「両端揃え」に戻すと、行の右端に文字がすらっと整う。その瞬間がなんとも気持ちいい。

ただし自分で「左揃え」にしてから「両端揃え」にしてもたいして楽しくない。「いつのまにか左揃えになっていた」段落を両端揃えにするのが良いのであって、この愉悦はある程度は偶然に委ねなければならないということになる。

押すと気持ち良いボタンがOffice製品にはわずかに含まれている

 

どーじょは保存される

こどもがひらがなを読み始めた。以前から文字への関心は強いようで、カタカナと一部のアルファベットも読む。天気予報で毎朝テレビに出るので「金沢」「輪島「七尾」も覚えた。早ければ優れているというものでもないが、こどもがものごとを自然と学び取ってゆくのは、良いことだなとおもう。

読むのと並行して、保育園で毎日ことばを覚えて帰ってくる。語彙、構文、言い回しが増える。かつての、乳幼児の話し方がどんどん消えてゆく。「おたたじゅけ(お片付け)」「はちゅぶちゅかん(博物館)」「おといけさん(お時計さん)」「すばな(砂場)」など、聞くごとにメモしていた。

ただ、「どーじょ」は現役である。こどもが最も早く覚えたことばのひとつで、いまも「どーじょ」と言う。ほとんどの語が「正確」になる一方で、変わらないままの単純な語があるのが不思議である。