しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

グレーゾーンの身体――遠くて近い保育所のこと

4月初日から保育所通園(1歳児クラス)が始まった。当初は「慣らし保育」ということで、一日に数時間ずつ、だんだん伸びてGW明けごろからフルに登園という流れ。

そうして、おおむね5ヶ月が経った。この間に気づいたことを書いておくことにする。

 

保育所に通う前までは、「日中はこどもは保育所=両親はそれぞれ仕事などでフル活動」と単純に捉えていた。しかし違った。単純すぎた。

たしかに、こどもが保育所にいる間はわたしと奥さんは仕事に打ち込める。だがこの命題が成立するのは「こどもが保育所に登園できる」という前提をクリアしているときのみである。

こどもが登園する。これは偉大な事業である。この事業が成立するためには、こどもが健康で、両親の送り迎えの都合がつく、という条件が必須である。この条件がなかなか揃わない。よく知られているように、保育所に通うとこどもは病気をもらってくる。登園すると登園できなくなるという不条理。免疫をつけてゆくとはそもそもそういうことだと頭ではわかっているが、二週間ごとに発熱と回復をくりかえすのはストレスではある。

問題は、こどもが熱を出したりして登園できなくなることそれ自体ではない。本当のしんどさは、「こども=保育所、親=仕事」という切り分けが実際には非常にグレーゾーンになってしまうということだ。

月曜日から金曜日まで、わたしと奥さんはそれぞれ仕事の予定が入っている、としよう。お互いのスケジュールを共有して、送り迎えの分担も決まっている。この予定帳のうえでは、見た目のうえでは、「こども=保育所、親=仕事」という切り分けがすっきりできている。送り迎えの時刻に挟まれているので、独身時代のようにフル活動はできないけれども、保育所に預けている間はぎちぎちとがんばれる、というように。

しかし現実は、そう白黒はっきりと進まない。すべてのスケジュールが「実行できるかもしれないし、こどもの発熱で潰れるかもしれない」グレーゾーンのもとにある。今朝の体温は36.8℃だったぜOK、でも午後には38.℃まで上がったので引き取ってと保育所から電話がかかってくる!

保育所に通い始めるまで、わたしはこの「グレーゾーン事態」の存在を全くといって良いほど理解できていなかった。おそらく同様のことを書いた文章はネット上に大量にあるのだろう。わたしはそれをいくつも読んだはずだけれど、けっきょく理解していなかったのだろう。このグレーゾーンの感覚はなかなか頭で捉えられない。むしろ身体がだんだんと慣れてゆくもののようだ。これまで生きてきた身体そのものが白黒つけることに特化してきたが、突然に曖昧な身体に引き戻されている。

しんどいのは、身体がグレーゾーンに慣れても、予定や仕事自体は従来どおりの白黒の世界で進んでゆくということだ。高原さん水曜日の午後は空いてますよね、予定を入れて良いですか?と聞かれたら、ハッキリOKと答えるほかない。論文などの〆切も当然明確に定まっている。

だから、身体のなかに二つのゾーンが同居するはめになる。グレーゾーンの身体と白黒に切り分けてゆく頭。どちらかに寄せることは不可能である。「白黒」と「グレーゾーン」の中間のゾーンという都合のよいものは存在しない。だから、そのつど使い分けたり、強制されたりする。二つのモードの並行、これがとにかくしんどい。数ヶ月かけてやっとそのことに気づいた。

(もうひとつの問題は、学会や動かせない出張などではけっきょく白黒の維持を断行することになるが、その際は奥さんにワンオペを強いることになる、ということである。わたしがワンオペを引き受けることもあるが、割合でいえばずっと少ない。グレーゾーンのしんどさを押し付けているわけである。)