しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

しゃがみこむこども

小さなこどもとおかあさんが街中で二人きりでいるのを見ると、すこし胸がきゅううとくるまれるような、不安なような、表現しがたい気持ちをおぼえる。

それは二人で買い物に行くとか保育園の送り迎えのような場面ではあまり感じない。具体的な目的や予定のなかで動いている場合は風景のひとつとして流れてゆく。そうではなく、ただ道端でこどもがしゃがみこんで虫や何かを見ようとしていたり、縁石に座って水筒の水を飲もうとしていたりして、おかあさんがそれに合わせて立ち止まっていたりいっしょに座っていたりするような場面。

それに出くわすのはたいてい、中途半端な時間帯である。日中の活動的な時間の、街の喧騒や流れのなかではない。11時過ぎとか16時前とか、おかあさんにとってはこどものお散歩の時間としていろいろ計算のうえでのことなのだろうけれども、勤め人はそこで「立ち止まる」ことが想定されていない時間帯。清々しい晴れた公園で子供が羽根を伸ばして走り回っているのではなく、特に何があるというわけではない人通りの少ない道端でこどもがしゃがみこんでいる。指先でなにかをいじりまわしていたり、ちょっと機嫌が悪くてうつむいていたりして、おかあさんの方も急いでいるようで急いでおらず、こどもに合わせている。

そういった場面をちらと横目で見て通り過ぎるとき、上述のような複雑な感情がわきあがる。それは自分自身も母とそうしていたのだろうという浅い感傷や、じぶんのこどももそのうちこのように過ごすのだろう、その時期の短さに対する予備悲嘆だけではないようにおもう。おそらく、そのおかあさんとこどもがそこでそのようにしていることが、世界の他の要素とほとんど関わりが無いということに対する感情である。ふたりだけの世界で、全体からほぼ切り離されている。

こどもはしゃがみこんだり座ったり周囲を眺めたりしていて、じぶんの関心だけを捉えている。世界の出来事を知らず、蟻やダンゴムシや石粒に集中している。社会的な時間の経過と切り離されている。そして、立ち止まるのがそこでなくても良かった。必然性も物語も無い。何時までにそれを終わらせる、何を成し遂げるということもない。おかああさんの側は、それを慈しんでいるのか、あるいは仕方なくつきあっているのかわからないし、前後の予定を気にしているかもしれないけれど、ともかくこどもといっしょにいる。

ふっと、そのふたりが世界から消えてもだれもきづかず、世界の側ではなんら意に介さない。社会的な動きや時間から切り離されて、こどもの感覚や感情とおかあさんの存在だけが、世界のなかでの組み込み場所をもたずに、ただそのときだけそこにある。その独立したはかなさのようなものにわずかに触れてしまったという感情である。