しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

上顎を鳴らす

9月半になったこどもは、かなり早い時期から、面白いもの・興味深いもの・好奇心を刺激するものを目にしたり手に取ると(かれの場合、この2つはほとんど同じであり、さらに「唇と舌でしゃぶってみる」がたいてい付け加わる)、独特の声を出す。それは上顎と鼻の気道のあいだの空洞を鳴らすような発音で、唇をやや尖らせて「こぉヮ、こぉヮ」と音を出す。この表記は実際の発音をほとんど反映していないのだが、無理に書くならこう書くしかない。それはつまり、この発音が日本語には無いということである。

これ以外のとき、こどもは「えーうー」「んマんマんマ」など、おおむね日本語ネイティブの発音に近い声を発している。なお上記の「こぉヮ」が混じった「ぐヮぐヮぐヮ」という発音もある。これらはおそらくわたしたち両親の日本語発音に次第に次第に近づき、それを習得する過程で日本語には無い発音は失われてしまうのだろう。言語学の知見では、母語の発音や文法の習得はただ一度きりのようである。たとえば英語のLとRの使い分けは、仮にいまから英語ネイティブのもとでのみ生活すれば習得するかもしれないが、現実にはそれを母語として習得する機会はそろそろ永遠に失われる。代わりにかれは日本語の発音を体得する。

すると「こぉヮ」は、こどもが日本語発音ネイティブになりかけている今だけ聞けるもので、日本語の発音を習得すると消えてゆくのだろう。

 

というブログ記事を書こうと思っていたのだが、きょう職場で本を読んでいて、そのなかに掲載されていた「東日本大震災で破壊された田老町の防潮堤」という写真を見た瞬間、その凄惨さに息を飲みつつ「kぉヮ」と上顎と鼻の気道のあいだを軽く鳴らす自分がいた。

この「kぉヮ」は全く何気なく出たのだけれど、こどもの「こぉヮ」とほぼ同じだった。うろたえた。こどもと同じ発音をしているじゃないか。こんな発音がじぶんの身体に入っていたのか、と。こどもの発音が移ったのだろうか。それとも実はわたしもこの発音を日常的に行っていて、こどもがそれを真似したのだろうか。あるいはなんらかの遺伝であるか。あるいは日本語ネイティブに実は広く聞かれる発音なのだろうか。

じぶんでも気づいていない、意識では忘れてしまっている発音がかすかに身体に残っていて、いろいろな場面でそれを実は細やかに使い分けているのかもしれない。あるいは、こどもの発音を聞いているうちに、身体の奥に沈んでいた発音がおもてに引き戻されたのかもしれない。ふしぎとしか言いようがない。kおヮ。