しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

いやいやの主体

1歳半が近づき、こどもの「いやいや」が増えてきた。

増えてきたというより、キレが増してきたというほうが正確だろうか。首の振り方に俊敏さと力強さがこもっている。首をぎゅぎゅんと振り、握ったものを渡すまいと両手を左右に振り、軟体動物と化して床にへばりつく。こちらの両手でこどもの両脇を抱えているのに持ち上げられない。重心の移動や体軸の回転といったボディコントロールに感心する。普通に「だっこ」されるときは相当に抱き上げやすいようにコントロールしてくれていたのだとも気づく。感心している場合ではないのだが。

「いやいや」が目立ってきたのは、こども自身の身体能力や認知能力の発達と関係があるのだろう。いろいろなものに手が届くようになり、登れるようになり、気づくようになる。それだけ危険なものへのアクセスが増える。すると親の介入が増える。こどもにとっては、せっかくできるようになったことが増えたのに、それ以上に禁止されることが増える。その反動としての「いやいや」。

しかしこどもの様子を見ていると、何か特定の意図やモノを守りたくて「いやいや」することはむしろ珍しいようでもある。むしろ「いやいや」が先にある。「自分」の意志や意図や目的があり、その表現や帰結や手段として「いやいや」をするのではない。「いやいや」が先で、言ってしまえばいやいやをする「自分」もいない。

先日、「いやいや」をした直後にこどもがふっと不思議そうな表情を見せた。あまり激しい「いやいや」ではなく、わたしが勧めたスプーンにふるふるっと首を振って口に入れることを拒んだだけである。ただその直後、わずかに宙を眺めて静止していた。それは「いやいや」をした自分の存在に内側から気づいたというような顔に見えた。「いやいや」はこどもから私への意思表示だが、そのすぐ後、どこに向けたら良いのか容易に把捉できないなにかにこどもは向かい合わされていた。

「いやいや」は周囲を拒絶する。拒絶して世界から切り離されたとき、そこに残っている何か。大人はそれを「自分」や「主体」と名付けて飼い慣らしているつもりになっている。けれどこどもはそうではない。初めてそれに出会っている。それはまさに「いやいや」を為したところのものである。しかしそのそれは「いやいや」の前にはいなかった。「いやいや」を通じて、その主体としか呼びようがないものが存在することが自分に示された。示されたものはまさにその自分自身で、指差すことができない。いつも興味を向いたものを指さして「これ」「これこれ?」「これー」と言っていたこどもが、そのときだけは主体のやわらかさの分だけ沈黙していた。

いやいやが達成される直前まで、いやいやの主体は存在せず、いやいやそれ自体がこども自身だった。だがいやいやが達成されると、いやいやは突然こどもに主体をひきわたす。いやいやをしていたのはきみ自身だったのだよ、とこどもは告げられる。そして「いやいや」自身はあたかも最初からこどもの道具であったかのように身を引いている。だがこどもはどこを探しても「いやいや」それ自体がどこから与えられたのか突き止めることができない。その代わりに「いやいや」を握りしめたじぶんに出会わされる。不敵な自信と、戸惑いと、世界から切り離されたさびしさといった感情がすぐにこどもに追いついて穏やかにまもる。

そのような場面に居合わせていた。自分ができることは特になかった。夜、お風呂にいれたら湯船から出るまいとイヤイヤして、浴室から出されたときは顔をおもいっきりくしゃくしゃにして泣いていた。そして穏やかに寝た。