しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

とにかく「死」が近い

とにかく「死」が近い。間近にある。毎日、どうしようもなくそのことを感じて、考えている。

こどもの首がしっかり座りはじめ、体重が生まれたときの倍以上になってやっと少し安心したのは、これでちょっとは「持つ」だろうということだった。

もしわたしと奥さんが家の中で同時にとつぜん死んだら。まずありえないことだが、どうしても想像する。こどもが産院から家に来た直後にそのようなことが生じていたら、こどもも数時間で死んでいただろう。

いまは違う。いま、わたしと奥さんが突然同時に死んでも、空調が止まらなければ、こどもは1日か、ことによると48時間ぐらいは生き延びるかもしれない。そこまで生きてくれたら別のだれかに救助される可能性も高まるだろう。だから、体重が増えて脂肪や水分をからだに蓄えるようになって、とても安心している。

 

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そもそもわたしと奥さんがとつぜん同時に死ぬということがまずありえないはずなのだけれど、こどもが生まれてから妙にリアルに感じるようになった。

独身で生きていたころも自分自身の「死」を考えなかったわけではない。しかしそれは、自分の能力や行動の延長線上にある可能性、あるいは自分の能力から離れたところから不意に襲いかかってくる可能性であって、ある程度は「じぶん」の責任や運命の範囲内にあるものだった。どのような死に方をするかわからないし、そりゃ死にたくないのだけれど、そのときが来るなら死ぬのは自分だからそれだけだ、という感覚である。

 

ところがこどもを抱っこして、お風呂にいれて、寝かせて、絵本を読んで、抱っこして…ということをやっていると、この「死=自分の可能性」という感覚が全く消えた。代わりに、もっと強烈な脆弱性というか、どうにもならなさ、「可能性」という表現では到底抱えきれないものを抱っこしている。

とにかく、なにかミスれば死ぬ。なにもミスっていなくても死ぬ。ぼんやりしていると死ぬ。心配していても、していなくても死ぬ。しかし心配していたら眠れない。

 

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全く抵抗しえないもの、すぐそばに控えていて、「能力」「努力」「把握」「対策」では何らカバーできないもの。

脆さというか、儚さというか。家族という単位が本質的に帯びているものがある。奥さんがこどもを抱っこ紐で抱えて買い物に行ってるときにダンプカーから外れた車輪に轢かれたら? 火事が起きたら? 一瞬目を外したときにどこかにはまりこんだり溺れたら? 家族三人でいるときにミサイルが部屋に飛び込んできたら? …妄想に病むことはしないけれども、世界に存在する諸々の可能性のうち、自分の「能力」では守りきれない範囲のほうがはるかに広いことをどうしようもなく実感する。

 

※この部屋に巡航ミサイルが着弾したり神戸上空で核兵器が炸裂することは客観的にはまず「ありえない」のだけれど、その「ありえない」という言明はその事象から生き残ることを前提としている。ミサイルが飛び込んできたら「ありえない」と言う暇なく死に、その前後の事象を客観視することはできない。「いくらなんでもありえなくないですか??」という異議申し立てが成立せず、ありえなさを引き受けさせられたことの撤回の権利も与えられない。つまり「ありえなさ」の客観的なありえなさを事象の前後に一貫して享受することはできず、あらゆる出来事は自分が引き受けさせられるものとしては全て「ありえる」。

 

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この脆さ、どうにもならなさ。それにあまり悩んでいないことも不思議である。かといって諦観しているわけでもない。恐れている。「怖がってもしゃーないか」という感覚は無い。ただとりあえず、こどもを抱っこして、お風呂にいれて、寝かせて、絵本を読んで、抱っこして…ということをやっている。

そうしているうち、先週から寝返りを始め、一昨日には歯が生え始めた。夜中に寝返りしてうつ伏せになると窒息するのではとハラハラする。でもこちらも寝ないわけにはいかない。