しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

指ちゅぱと時間の厚み

 2週間ほどまえから、つまり2ヶ月を過ぎたころから、こどもの「手」の使い方がまた増えてきた。おおまかには以下の3種類。

 (1)抱っこのときに襟や袖口をつかむ。(2)指をちゅぱちゅぱ吸う。(3)手を目の前に出し、じっと見つめる。いわゆるハンドリガード。

 

 このうち、指をちゅぱちゅぱ吸う動作(以下「指ちゅぱ」と記す)は、とくに不安だったり欲求が満たされないときに始まるようだ。そうでもないときもわりと惰性で吸っているけれども。

 それ以前も、とくに空腹時は拳をまるごと吸い回すことが多かった。ただ、そのときは空腹がまずあり、そこから唇が動き、そこにたまたま移動してきた拳に吸い付くという流れだった。いまは空腹時以外も、抱っこをしてほしいのにしてもらえないとき、ベッドに降ろされた直後などに指ちゅぱを始める。

 指ちゅぱによって、かれの身体は閉回路を形成する。それまで、かれの身体はもっぱら外部に向けて開放されていた。皮膚やまぶたはかれを包んでいるけれども、うんちとおしっこはそのまま出て親におむつを交換され、お腹が空いたり不安だったりするときはただ泣く。泣き声が外に向けて放射する。こちらはそれを抱きとめ、安心と栄養を供給する。肌を拭き、服を取り替える。かれの開放されっぱなしの身体を、われわれ保護者のケアが閉じていた。

 ところが指ちゅぱによって、放射していた叫びがかれ自身の口と指と腕によっていったん受け止められるようになった。口から腕にかけて身体が輪をつくる。当座のことにすぎないけれども、自足している。

 不安や不快をただ泣き声というかたちで放射して救援を求めるのではなく、自分自身の身体でいったん受け止め、閉じ込めている。これは苦悩の始まりであろうとおもう。解消されないもやもやしたものを撒き散らすのではなく、まず自分の内部に滞留させる。それによって混乱や興奮が次第に落ち着いてくる。しかし完全に解消することはなく、空腹や抱っこが無いことの不安についてはいずれ近いうちにこちらがそれを与えなければならない。つまり指ちゅぱはその場しのぎである。

 実際にこどもが必死に指をちゅぱちゅぱ吸っているところを観ていると、人間的な苦悩が始まってしまったのだなぁと感じる。得られないものを得ようとして、自分自身でなんとかしようして、けれども根本的解決には転じない。じっとじっと苦悩によどみ、なんとかそれを減らそうとしている。

 すると、こどもにとって、指ちゅぱをすることで不安や不快を自身に閉じ込め、苦悩のモードに入るメリットはさほど無いように思える。指ちゅぱをせず、身体が開放的なままであったなら、依然として親は何らかのケアをしてくれるだろう。指ちゅぱはむしろ親の介入を減らす。実際、さきほどもだっこしていたこどもをベッドに置いたら背中スイッチが一瞬入ったが、自分で指ちゅぱを少ししてそのまま寝入ってしまった。1ヶ月ころにはありえなかった。このようなわけで親にとってはたいへんありがたいのだけれども、こどもがそれを引き受ける理由はどこにあるのだろう。

 目的論的に考えるならば、こどもはそもそもそこまで親を必要としたいわけではないのかもしれない。泣けば抱き上げてもらえるかもしれないけれど、いちいち泣いて抱っこされて泣いて抱っこされて……を繰り返すのは、こども自身にとっても面倒なことである。いくぶんかの苦悩を抱え込むのと引き換えに、自分自身の身体と時間の独立を手にいれている。

 もうひとつ別の考え方をすると、身体の発達にともなってこども自身の時間の厚みが少しずつ育ってきたのかもしれない。以前のエントリで乳児には「現在」しかないと書いた。しかし最近は、少しずつ「現在」の厚みが増して、なんとなく近い将来や、少し減衰した過去といった領域が「現在」の周縁に生じつつあるようだ。指ちゅぱは現在の興奮をすこしずつ減らしてゆく。つまり興奮が今よりも減った未来が、指ちゅぱを通じて少しずつ接近してくる。そうやって未来を現在に引き寄せ、現在を過去に送り出しているうちに、親が現れてより大きな快と安心を与えてくれる。待つことは親の選択肢を増やす。それはこどもにとってもメリットである。欲求充足を先送りにすることでより大きな快を確保する、という構造が生まれ始めている。

 この構造は親にとって都合が良いものの、指ちゅぱ等による自己閉鎖的な苦悩をどこまでかれにゆだね、どこらへんから介入するのか、という新たな課題が生じる。つまりどのタイミングで抱き上げるかということなのだが、どうもこれは頭で悩むよりも身体的な直観に従うのが正しいように感じている。実際、抱き上げるのが早すぎた・遅くなってしまったと感じることはあまり無くて、さほど頭で考えずに「いまだな」というところで抱き上げている(ちなみに抱き上げるタイミングは妻とわたしでほぼ差が無いが、抱き上げたあとの興奮の鎮め方は妻のほうがはるかに上手い)。いまのところはなんとなくうまくいっている。来月はどうなっているだろうか。