しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「こ!」と「う!」

こどもの発音の変化が激しい。頻繁に現れる発音が、長くて1ヶ月、短くて2週間くらいで入れ替わる。1ヶ月前のエントリーで、こどもが興味深いものに出会ったとき「こぉヮ」と上顎を鳴らすような発音をすることを書いた。

 

また、昨年秋に、母親がいないとき「えーうー」としばしば発音することを書いていた。


しかし10ヶ月半の現在、「こぉヮ」も「えーうー」もきわめて減った。消滅はしていない。しかし他に勃興した多くの発音に機会を譲っている。最近はより日本語ネイティブに発音が近くなり、声量自体が大きくなり、息が続いて長くなった。また単調な「んまnんまnんまnんま…!」だけでなく、一つの発声のなかに音の高低を突然入り交じらせることがある。わたしは言語学がわからないのでどう表記したものか困るのだが、「は↗う↘ほ↗わ↘」といった具合である。こどもなりに大人のことばを聞いて模倣しているのだろう。驚く。

 

このように発音の変化・発達が目まぐるしい……いや、耳まぐるしい(?)のだけれど、この1週間はさらに、「意味」の萌芽が現れているようだ。それは「こ!」と「う!」である。

「こ!」は、積み木やおもちゃ(おそらくこどもが気に入っているもの)を手に持ってそれを自分で見ているとき発する声である。この「こ!」を大人のことばの意味に強引に翻訳すると「これ」となるようにおもう。ただ、大人が「これ」と言うときは、手元にあるものを話し相手に指し示すというはたらきが主である。こどもの「こ!」の場合はそれと違って、相手に示すという意味合いがほぼ無い。むしろ自分に閉じている。自分がいま手に持っているものを、その個物そのものとして確認しているときに発しているようである。この点で、先述の「こぉヮ」にも近い。ただ、「こぉヮ」には確認というより、手に持っているものをしみじみと興味深く味わうような趣があった。いまの「こ!」は、この「こぉヮ」の意味合いをある程度は含みつつ、一種の掛け声でもあるらしい。手で持っているものを玩味し没入することを「こ!」によって敢えて防いでいるようでもある。「こぉヮ」の時期は口唇で舐め回すことが多かったが、「こ!」は手と目での確認が主である。

「う!」は、持っているものを親に差し出すときに発する声である。この2週間ほど、こどもは「ちょうだい、どうぞ、ありがとう」の遊びができるようになった。手に持っているものを親に差し出し、親がそれを受け取り、またこどもの手に返す。このとき「う!」と言う。ただ、持っているものを渡すために突き出すときも「う!」、親の手にあるものを返してもらおうと手を突き出すときも「う!」、さらに持っているものをこちらの手に突き出すけれど手放さず自分で握り戻すときも「う!」である。だから「う!」は「どうぞ」であり「ちょうだい」であり「これは渡せないけどとりあえず触ってみて」でもある。あるいはまた、「これすごいでしょう」の意味でもあるかもしれない。

これら「こ!」と「う!」はほぼ同時に生じている。「う!」は、こどもと他者(親)との関係のなかで発せられる。身体の動作、視線のむすびあい、相手の動作を誘い出す精神の発出が、かれとわたしたちのあいだにあらかじめ染み込んでいた癒合的な場を改めて浮き上がらせ、その総仕上げのようにして「う!」が発せられる。手渡されるモノはその癒合的な場に編み込まれている。

これに対して、「こ!」は、こどもとモノとの関係のなかで、その関係内部にこどもとモノを閉じ込めるようにして発せられる。それを声として発して周囲に聞かれているという意味では関係的ではあるが。だから「こ!」と言っているとき、そのモノを無理に取り上げようとすると大いに抵抗する。取り上げたくないのだけれど、危険なものや親にとって大事なものはかれの手からもぎ取らざるをえない。そういうモノほど、かれにとっては「こ!」であり「こぉヮ…」であるので、かれの立場からすれば理不尽きわまりないのだが。

 

さしあたり以上のように整理してみている。ところでこの「こ!」「う!」が成立する前段階として、手指の握力の発達と、握りしめたものを「手放す」という動作の習得があった。このこともいずれ書きたいとおもう。