しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

こどもがおどろく

こどもが2週間ほど前から、ときたま、ものごとに「驚く」様子を見せるようになった。

部屋の外でカラスが鳴いているとき、すこし体を縮めながら首を回して部屋の壁をそわそわ眺めていた。こどもはカラスを見た経験がゼロではないが、部屋の外にカラスがいること、それがこのように鳴くことは知らない。だから、よくわからない、聞き慣れない鳴き声が突然きこえてきたことになる。あるいは「鳴き声」というカテゴリ自体、まだ彼には存在しないかもしれない。

 

別の日、こどもとわたしが部屋の床にぺたんとお尻をつけて座って遊んでいたとき、廊下を妻がすたすたと歩いてきた。部屋の引き戸は開いていて、そこを妻が横切る姿がとつぜん現れてまた消えた。これにはこどもははっきりと驚いていた。母という、もっとも愛着を帯びているはずの存在でもこのようにおどろきを引き起こすのだとわかって不思議におもった。そしてまた、親の挙動や部屋の内外の出来事に大きな変化は無いはずなのに、以前は見せなかった「おどろく」という様子が初めて生じているのも不思議なことである。

 

おどろくことができるためには、日常・平常の感覚から突然外れた出来事としてそれを受け取ることができなければならない。つまりおどろきの前には強靭な「日常」や「平常」が成立している必要がある。慣れが驚きの前提である。世界の事物はさしあたりすべてが安定したもの・不変のもの・いつもどおりのものである。そのような「当たり前」に取り囲まれているところに不意に何かが生じるから、ひとはおどろく。

とすると、こどもは生後6ヶ月経ってようやく、この世界がたいていは安定したもの・変わらないものに埋め尽くされているという仕方でそこを生き始めたということなのだろう。しかしそれは「おどろき」をところどころに隠し持った世界でもある。

 

別の言い方をすると、ゆったりと流れる「時間」をこどもが理解し始めたということかもしれない。おどろきは現在を突然裂いて現れるものに対しても生じるが、多くは現在を絶えず新鮮なものとして産み出している、わずかに「先」の未来といっしょにやってくる。この未来は数秒とか数分とかの数直線的な将来ではなく、現在が未知に開かれつつ確定しているというときの、現在の少し奥にある源泉である。その未来につねに視線を送り込んでいる。それは「ここには何も現れない、通らないはず」という消極的な予測・投機でもある。その予測を裏ぎって妻が通ったので、こどもは驚いたのだろう。