しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「んま」と「ぷっぷっぷ」

 スウェーデンボルグという神秘家は天国と地獄を見てきたという。天国の住民たちは「天使語」で会話し、地獄の住民たちは永遠とお互いに口論をしているのだという。なおスウェーデンボルグによれば、地獄には希望者が行くという制度であるらしい。

 こどもが生後2,3ヶ月のころ、寝室の電灯を消すとひとりで30分ほどふにゃらふにゃらと声を出していた。これは天使語に比すべきものかもしれないとおもった。いまは「寝かしつけ」に30分ほどかける必要がある。抱きかかえて「ポイズン」をエンドレスで流す。寝かしつけのことを我が家では「ポイ活」と呼んでいる。「ポイズン」3周で寝た日は「きょうは3ポイだった」などと言う。次に書く論文の謝辞には反町隆史への感謝を記すつもりである。

 話が逸れた。長いあいだ、こどもの発声は唇を閉じることがなかった。ところが最近はmとpの音がたまにあらわれる。なにかに興味や好奇心を持っているとき、唇を軽く閉じたまま息を吹き出して「ぷっぷっぷっぷっぷ」と言う。また、日本語っぽい節回しで何かを喋ろうとしているようなとき、たまに「んま」という音が出る。mとpが加入するだけで格段に「声」っぽくなるなと感じる。

 興味深いのは、音節がわりとはっきりとしている発話はこどもが何らかの不満や欲求を表そうとしているときに現れることである。機嫌が良いとき、楽しいときは「んきゃー」「ひゃー うー」といった、やや間延びした声である。ところが何かを取り上げられたときや、親がそばに来てくれないようなときは「うん”えぅえぁおぃ”んー ん”ん”ぁおぁいあぅー」というような、一定の抑揚やリズムを持った、ことばらしい声になる。何かを訴えている、表現しようとしていると感じる。

 この違いは何なのだろうか。喜びや心地よさは本来、声として発散することはあっても、強いて表現する必要が無いのかもしれない。これに対して不満や欲求はぼわぁと間延びさせることができない。音節として「区切って」ゆくことで感情にかたちを与え、不快感をなんとか自分の制御下に置こうとしているのかもしれない。

 ところで最近気づいたことだが、母親がいないとき「え”ーうー」と叫ぶことが多い。不安と呼びかけと不満を同時に込めた声である。わたしがいないときはこのような呼び方はしない。この「え”ーうー」ないし「えーうー」が、母を意味する、かれにとっての最初の語彙なのかもしれない。