しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

そこに無ければ無いですね

 こども(7ヶ月半)はスマホが好きだ。写真や動画を撮られるのも、スマホをつかんで角を舐めるのも好きだ。目の届く範囲にスマホを見つけると猛ダッシュ匍匐前進で捕獲しに来る。

 レンズなどを舐められると困るので、親としてはスマホを隠す。即座に枕の下に入れる。すると、こどもはスマホへの興味を失う。これはなかなか奇妙なことである。こどもはわたしが枕の下にスマホを入れる始終を見ている。だから「隠す」という表現も本来は合わないだろう。こどもが枕の下に手を突っ込めばスマホはすぐにつかめるはずである。枕をどけてもよい。しかしそうしない。見えなくなると、無いものとして扱われるらしい。おそらく「興味を失う」という表現も適切ではないだろう。

 これは子ども椅子に座らせている際におもちゃを床に落としたときも同様であって、直前まで機嫌良く遊んでいたおもちゃが視界の下に消えるやいなや、それ以上探そうとしない。机上の別のものに手を伸ばす。

 枕の下、机の下に、スマホやおもちゃが依然として「有り続ける」という感覚が希薄であるようだ。見えていれば手に掴み、享受する。見えなくなればもはやそれは存在せず、探すという試行すら発動しない。

 さて枕の下から再びスマホを取り出してこどもの眼前に置けば、喜び勇んでこれを掴む。しかしこの場合、かれにとってスマホはいかに「存在」していることになるのだろうか。以前から有ったものが一時的に枕の下に有り、それがまた眼前に移動してここに有る……という理解はしていないのかもしれない。それは突然消滅し、突然また現れた。存在が時間的な連続性にへばりつくのではなく、「いまここ」「眼前に、手元に」有るかどうかだけで理解されている。有れば有り、無ければ無い。この存在理解が維持されるのは、スマホの「発生」や「消滅」について不思議を感じないからだろう。

 ある何かがここに発生し存在するようになるためには理由やメカニズムがその背後に無ければならず、そうした理由やメカニズムには合理的な説明が必要とされる……大人にとって当然のこの存在理解をこどもは共有していない。発生・消滅を特殊なものとして、それよりは時間的な連続性・恒常性を基本的なものと捉える大人のこの存在理解それ自体にたいした根拠は無いだろう。だからメリー・ポピンズはかばんの中から長い電気スタンドを取り出すことができる。こどもは発生・消滅を不思議ではないものとして、連続性・恒常性を取るに足りないものと見る。有れば有り、無ければ無い。

 ところでこうした態度にも一つ例外があり、それは母親の存在である。母親の姿が見えなくなると、こどもは悲痛な泣き声をただちに上げる。母は発生・消滅するものではなく、恒常性・連続性によって包摂される。父であるわたしはそうではなく、いるときはいて、仕事で外出するとそのままいないものとして理解されているらしい。帰宅すると、あ、そういえばいなかったんだな、という顔で出迎えられる。それを期待していま帰路の新快速の車内でこの文章を書いています。