しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

つぶを見つめる

 わたしの母には不思議な「科学のセンス」が昔からあった。「科学のセンス」とは何であるか明確に答えることができないのだけれど、情理や倫理とは別の次元で世界をクリアに把握する感覚、とでも仮定義しておく。

 

 

 このセンスは家族のなかでおそらく母だけが強く持っていて、わたしはある程度それを受け継いだ。他の家族、父・妹・弟もべつに非科学的なひとではないのだけれど、母のものの見方とはすこし違う。父は世界を歴史の視点で理解するひとである。わたしは良い意味で、無理の無い範囲で、父の歴史学的センスと、母の科学のセンスの両方を受け取ったのだろう。そうしてわたしは(臨床)哲学にすすみ、弟は芸術にすすんだ。

 

 母の「科学のセンス」の本質を考えてみると、それは「小さなものを手元に引き寄せる」という在り方であるように思える。先日、彼女は孫に庭の鉢を見せ、そのひとつに生っているミニトマトをひとつぶひとつぶ採集して、孫の手のひらに乗せた。幼児はプチトマトを食卓で見て知っていたはずだったが、手のひらでじっと実を見ていた。そこで初めて何かを発見していた。かれはトマトや植物の何たるかを何も知らない。けれども、顔の近くに引き寄せて対象をじっと見るこの姿勢は現実の科学研究者とそっくり同じだった。かれがそのようにできたのは祖母が強いてそうしたからではない。そこには自然な「流れ」があった。すなわち、枝から実をちぎり取る、それを手のひらに乗せる、トマトであると言う、眼でよく見えるようにする、という一連の仕草である。かれはそこに自然と合流して、真似したのである。

 

 これと似たことがもっと以前にあった。わたしの妹が、つまりミニトマトの実をじっと見ていた幼児の母親がまだ小学校に入る前のころ、家の玄関先で母が育てていた多肉植物の米粒のような葉体を茎からすべてむしり取ってしまった。ぷちぷちちぎるのが面白かったのだろう。母は「あーあー」と笑って多肉植物の鉢を放置していた。そして後日、妹がちぎった葉体ひとつずつが再び小さな根を直接伸ばし始めていたのを母は発見した。ほっとったら生えてきとった、すごい、と言って子供たちにそれを見せた。微細なものによく気がつくひとである。

 

 ところで、このひとはそこから追加で何も言わないのである。つまり、ミニトマト多肉植物の葉について、「かわいいね」とか「きれいだね」とか「サボテンさんもがんばってるんだね」といったコメントを一切与えない。ここがおもしろいひとであると思う。強いて言うとすれば「すごいなあ」といった感想であるが、これは彼女自身の素直な驚きの発露であって、子供たちのために、教育のために何かを言うということが全く無いひとだった。じぶんが面白い、良いとおもうものを見つけてにこにこして、それを子供たちに見せて満足するだけである。

 

 以前、これと対照的な態度を取るひとに、京都市の植物園の温室で出くわしたのを思い出す。母と祖母らしきひとが小さな娘さんを連れてきているのだが、とくにこの祖母らしき女性が、温室の珍しい花を見つけるたびに、ほら○○ちゃん見て、キレイねえ、と言っていた。どの花を見ても「キレイねえ、ほらキレイねえ」だった。幼児の体と眼がうろつき周り、何かを発見するのを待たず、それをあらかじめ先回りして花を見つけてしまい、幼児の視野をそこに誘導して固定させ、「キレイ」という形容を当てはめ、それ以上なにも言わせない。そのような態度であるようにおもえた。この教育的コメントによって、その子の感性は「花=キレイ」でどんどん固定されてしまうのではないかと不安になった。それは一面では常識的な世界観を育てるのに役立つけれど、立ち止まって眼を近づけてじっと見て、何かにおどろき、次いで不思議なよろこびを覚えるという科学者の姿勢を育てるものではない。この科学者の姿勢は、詩人の姿勢でもあり、哲学者の姿勢でもある。

 

 思い出してみると以上のようなエピソードもあったので書きました。