しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

犬はカメラ目線ができない

 実家では犬(黒ラブラドール、オス)を飼っている。この犬の写真を撮ろうとおもってiPhoneを向ける。すると、直前まではわたしの顔を見ていたのに、ぷいと脇へ目をそらしてしまう。人間なら「カメラ目線」ということをしてくれるが、犬にはそれが難しいらしい。

 

 かれはカメラやiPhoneが何かを知らない。かれの視点からすると、直接顔と顔を突き合わせていたところに、わたしが突然に黒いモノリスをその間に差し入れた、ということになるだろう。ずいぶんと失礼な振る舞いにちがいない。

 そしてどうやら、小さな黒いモノリスの「向こう側」に、依然としてわたしの顔と目がある、ということが犬にとってはあまり知覚されないらしい。正確に言えば、わたしの顔と体全体の存在は維持されているけれど、「視線」は途絶えてしまっているらしい。

f:id:pikohei:20170803154154j:plain

↑わかりやすい例。ちょっと明後日の方向へ逸らしてしまう。 

 

 人間の場合、撮影者が顔前にカメラを構えても、それを〈貫通〉して視線が維持されているということを知覚している。だから「カメラ目線」という振る舞いが可能になある。これは推測や思考によって実現されているのではなく、もっと自分の身体に近いレベルで理解されていることである。見知らぬひとにカメラを急に向けられたときのビクッとするかんじは、考えて成立しているものではない。じぶんと他者はそれぞれ視線という「存在の仕組み」を備えていて、それは顔の前に構えた四角い箱や板によって遮られることはない(むしろ独特の仕方で強化されている)、ということを理解している。カメラという道具の意味を理解している。

 犬にはそれが無いように思える。動物写真家の撮った写真には、うまくカメラ目線になっているように見えるものもあるけれど、どちらかといえば「カメラを貫通して写真家と目を合わせあっている」というよりは、「物体としてのカメラそのものに好奇心を持って近づいたところにうまく視線の軸が物理的に合った」というケースが多いように見える。写真家にとっては自分の視線とカメラの視線が知覚のレベルで合体しているけれど(この合体は物理的に同角度だということだけでは実現されない)、動物の側では、身体全体のフォーカスはカメラの裏側ではなくカメラそのものに向いている。