しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

そういうことじゃないんです

阪急電車に乗っていたとき、80歳代ほどのおばあさんが杖をつきながらヨコヨコとホームから車内に入った。わたしをふくめて、座席に座っているひとの大半が即座に彼女の歩みを捉え、追った。おばあさんはドアから1メートル半ぐらい離れたところに空席を見つけ、そこをめざして前進し始めた。その空席はちょうど列車の中央ぐらいだった。ひとびとの視線もその空席を捉え、安堵した。ビリヤードの玉がコーナーに吸い込まれるのを見守るようだった。おばあさんは座席の眼の前まですすんだ。

そのとき、車体端の優先座席に座っていた中年男性が席を立っておばあさんの元にすっと駆け寄り、こちらが空いていますと声をかけた。おばあさんはちょっと困った顔をしてからUターンした。眼の前の空席をあきらめ、端っこの優先座席への旅を新たに始めた。おばあさんはおそらく、3つか4つぐらいの可能性(転倒するかも、断れば男性に恥をかかせるかも、周りのひとはどう思うだろう、結局立ちっぱなしになる可能性はゼロでないかも、etc...)を同時並行で瞬時に計算して最終的な判断を下したのだろう。さらに周囲のひとびともその計算過程を瞬時にシミュレートして、おばあさんも自分の倫理的判断がシミュレーションされたことをわかっているから、その結果、なんだか微妙な雰囲気が車体に充満する。

 

この中年男性はちょっとだけうっかりさんだった。自席から、おばあさんが目指していた空席が見えなかったのだろう。それはしょうがない。おそらくもう一段慎重であれば、おばあさんの動きや周囲の視線から、彼女が見えない空席を目指していることが知覚できただろう。親切心が知覚の奥行きをインターラプトしたのだろう。

とりあえずそういうことが先日ありました。