しずかなアンテナ

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「中絶前の妊婦に胎児の画像と心音を」法案について

www.cnn.co.jp

 

 このニュースを教えてくれた方が「グロテスクの一言」と言ってくれた。わたしも同じ感想を持った。

 この法律のグロテスクさ、ヤバさを多少分解してみたい。

 

1.心音を聴くのは妊婦だけ?

 上記のニュース記事では妊婦が胎児の心音を聴く・画像を見ることになっている。「父親」への強制については言及されていない。

 法案原文にあたっていないので、強制は妊婦のみなのかわからない。もし妊婦のみなのだとしたら、なぜ父親は免責されるのか、なぜ妊婦だけがこの苦痛を味わわなければならないのか。

 もし妊婦のみが心音・画像への曝露を強制されるなら、中絶という「非道徳的行為」の責を女性にのみ負わせようとする態度があると言わざるをえない。

 

2.中絶の抑止にはならないのではないか。

 法案は中絶を厳罰化することが目的であると思われる。胎児の心音・画像によって、妊婦が胎児の生命の存在を認識し、中絶を「思いとどまる」ことが期待されているのだろう。しかしそれで本当に妊婦が中絶を回避して出産を決意する例が多く出るだろうか、という疑問がある。

 多くの場合は、心音を聴き画像を見たうえで中絶を続行するだろう。となると、このプロセスは抑止力を持たず、妊婦がもともと感じている罪責感や苦痛をより強化することにしかならないだろう(※罪責感を感じるべきだと言っているのではなく、実際問題として多かれ少なかれ感じていることが多いだろうということ)。

 つまり、法律の目的が、中絶の抑止にではなく、中絶を選択した妊婦/女性に対する懲罰にあるように思われる。

 

3.心音、エコー画像という医療技術が中絶の道徳的価値付けの強制に用いられている。

 胎児の心音を聴き取る技術や、エコー画像の技術は、そもそも妊婦・胎児の健康な出産を助けるために用いられるはずのものである。仮に中絶手術にそれらが用いられることがあっても、あくまで手術を安全に進めるために使用されるはずであって、妊婦に精神的な負荷を過重にかけるために用いられるべきものではない。

 つまりこの法律では、医療技術を道徳的な懲罰具として用いようとしている。

 

4.妊娠/中絶という私秘的な出来事を、技術によって「見える」ようにする。

 そもそも妊娠も中絶も、からだの中で起きること、部屋のなかで起きること、女性と男性のきわめてプライベートなできごと・行為である。

 もちろん、いったん子供が生まれてしまうと、育児は部屋の中だけでは完結しないので、ある程度の社会性を帯びざるを得ない。新生児の「お披露目」はその儀式である。

 ところが、心音やエコー画像は、祝福された「お披露目」よりも先に胎児を可視化してしまう。幸福な妊娠・出産ならばそれでも問題は生じにくい。しかしこの法案では、中絶の場合も胎児を可視化しようとする。

 無理に可視化しなくても、女性は妊娠をさまざまな仕方で実感している。はっきりとした変化として、おぼろげな知覚として、神秘的な、あるいは気味の悪い体験として。それを「可視化」することは、妊婦以外の人間の視線を仮想的に導入することなのだ。診療室という限定された空間ではあるけれど、胎児の存在を客観性を持ったものとして引きずり出す行為である。「ここに胎児がいるぞ!」と公共に触れ回るということ。そのとき女性の存在は「胎児のための何か」へと変質させられる。天使の受胎告知を一方的に受けさせられるマリアのように。

 心音、エコー画像によって、妊娠という体験が、社会の道徳的視線にいっきょに晒される。つまりこの法案を考えたひとが言いたいのは、「俺の知らないところで妊娠するな、中絶するな」なのだ。

 

5.そもそも医療ではないし、インフォームド・コンセントも取れない。

 ごく単純に考えて、これはそもそも「医療」「治療」ではない。妊婦の苦痛を強化するだけで、中絶の過程には全く必要無い。

 治療と人体実験では患者への説明と同意(インフォームド・コンセント)が必須であるけれど、この法案はその鉄則を完全に無視している(そもそも「義務付け」はインフォームド・コンセントの理念と真逆だ)。中絶前に胎児の心音やエコー画像を認識したいと望む妊婦が多いとは思えない(少数はいるかもしれないけれど)。妊婦の同意が取れないままこの処置を強行するなら、その医療者はインフォームド・コンセントを謳ったヘルシンキ宣言に違反していることになろう。