しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

地球型ではないけれど、アレであるもの

 宇宙人はいるか、地球外生命体は存在するか。ということを探るとき、「水」の有無が大きな問題になる。太陽系のある衛星には実は水や氷が豊かに存在するとか、もっと遠い惑星からのスペクトルを調べると水の存在が確かめられるとか、天文学者はそういう探索をいろいろと試みている。

 

 生命にとって水は欠かせない。水と空気。なんらかの有機物と無機物。水を基本としていろいろな条件と材料から原初の生命が生まれたらしいし、すくなくとも今の生きものに水は絶対に必要である。

 

 したがって、地球外生命体を探すことと水のある星を探すことはおおむね連動した目標であるし、さらに縮めて言えば水と生命はほぼ同一視されている。生命体が存在するなら、それは地球に似た惑星、水とその他の物質を持つ星に違いない。

 

 けれども、水とは無関係に成り立つ生命体も成立しうるのではないか。渇いた星だけれど、たしかに生物と呼びうるものがうごめいている。そんな星もあるかもしれない。

 水抜きで細胞やDNAなどの構造が生じうるのかわからない。自分には想像がつかないけれど、細胞に類似した構造が成立するかもしれない。すくなくとも想定のみは許されよう。

 

 ただこの想定でも、生物「体」というイメージはまだ保持されている。個々の個体が存在し、それらは互いに捕食や生殖や無関心といった関係を持ち、ある種族や個体が繁栄・淘汰する。わたしたちが地球外生命を想像するとき、このような前提がある。

 

 さらに飛躍して、もはや個体とも群体とも言えず、生命「体」とも言えず、繁栄や淘汰や種や生存競争といった概念も当てはめられない、けれども確かに生命だと呼びうる何かが存在することはありうるだろうか。

 

 具体的な例は出せないのだけれど、たとえばある惑星の群れの間に取り交わされる何らかの信号が複雑だけれど一貫したパターンや構造を保っており、それが単なる物理現象以上の何かとみなさざるをえない、といった状況である。

 

 ただしこの例でも、「パターン」「構造」という前提は保たれている。さらに想定を進めて、もはや「構造」ですらなく、私たちには想像すらつかないけれど、しかし実際にそれに接してみるとたしかにそれも生命であると言わざるをえない、そういった何かに出会うかもしれない。

 

 もしそういった何かに出会ったなら、わたしたちは生命の本質についての定義を改訂しなくてはならないだろう。それは十分起こり得ることだとおもう。ただし、その新たな本質を見抜く力が人間に備わっているとしたらの話である。

 

 あるいは、その本質を改訂する可能性に常に開かれていることが、生命の本質なのかもしれない。「あ、これは地球型生命体とは全然ちがう……まさかこういうアレで来るとはめっちゃ想定外……けどこれもやっぱ生命やん…」という事件が起きないと確約されているなら、それはたいそうつまらないことだとおもう。

 そして、もしそういった可能性が許されているなら、それは必ず地球外に存在しなくてはならないものではないだろう。いまこの星のうえでそういったことに出会うことも案外ありうるかもしれない。

 

 などという妄想をしていました。