しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

伊藤野枝『乞食の名誉』における電車内の記述

 少し前、電車でどこかに「行く」という表現は奇妙だと書いた。そのとき、夏目漱石の小説『坑夫』に、歩いていた主人公が途中で汽車に乗るシーンが出てくるということを、記憶のまま書いた。

 

 その後、電車の車内の書き方ということに少し関心を持っていた。

 岩波文庫伊藤野枝集』を読んでいたら、同書所収の短編小説「乞食の名誉」のなかに市電に乗るシーンが出てきたのでメモしておく。

伊藤野枝集 (岩波文庫)

伊藤野枝集 (岩波文庫)

 

 

 小説はおそらく著者伊藤野枝に強く重ね合わされた主人公「とし子」が、勉強会から自宅への帰り道、子どもへの愛と家庭の抑圧に引き裂かれつつ、アメリカの活動家エンマ(エマ)・ゴールドマンの事績を想い決意を新たにするといった流れになっている。

 電車のシーンはその序盤に位置する。

 

 ようやくに深夜の静かな眠りを脅かすほどの音をたてて、まっしぐらに電車が走って来た。運転手の黒い外套にも頭巾にも、電車の車体にも一様に、真っ向から雪が吹きつけて、真っ白になっていた。電車の中は隙いていた。皆んなそこに腰掛けているのは疲れたような顔をしている男ばかりであった。なかにはいびきをかきながら眠っている者もあった。とし子はその片隅に、そっと腰を下ろした。電車はすぐ急な速度で、僅かばかりな乗客を弾ねとばしてもしまいそうな勢で駆け出した。とし子は思わず自分の背中の方に首をねじむけた。背中ではねんねこやショオルや帽子の奥の方から子供の温かそうな、規則正しい寝息がハッキリ聞き取れた。とし子は安心してまた向き直った。そして気附かずに持っていた傘の畳み目に、未だ雪が一杯たまっていたのを払いおとして、顔を上げた時にはもう四ツ谷見附に近く来ていた。

 四ツ谷見附で乗りかえると、とし子は再び不快な考えから遠ざかろうとして、手提げの中から読みさしの書物を取り出した。けれど水道橋まで来て、そこで一層はげしくなった吹雪の中に立っている間に、また取りとめもなく拡がってゆく考えの中に引きずり込まれていた。(pp.83-84)

 

 市電の運転席と運転手に雪が吹き付けているところは現代の電車やバスと大きく違うが、それ以外は、現代の公共交通機関の様子ときわめて似通っている。こうした空間における居ずまいのジェンダー差も現代と同じで、まばらな「疲れたような顔をしている男ばかり」の車内で「とし子」は「そっと」座席に座る。座っても子供を背負っているから、座席の背もたれに深々と身を預けることはない。子供を押さないように、まっすぐ、あるいは少し前かがみになって座る。そうして子供の寝息を確かめる。他方で男の乗客の中には「いびきをかきながら眠っている者」もある。かれはおそらく背もたれに体重を預けて、市電に体を運ばせている。

 とし子は自宅へ戻るまで2度、市電を乗り換えている。市電に乗り慣れている。しかし市電車内は彼女にとって居心地の良い場所ではない。上記の描写では、市電の車内空間がとし子を一人にさせ、異質なものにくるませてゆく。彼女にとって身近で暖かなものは背中の赤子の存在だけで、ほかは全てが外部世界である。この段落を読む当時の、また現代の読者は、とし子が点在する男性客からちょうど均等に離れた空席にそっと座ったことをすぐに読み取る。乗り合わせた乗客が見知らぬ他人だから疎外感を持つというのではない。むしろ公共の車内が、均等に距離を取るという空間的・測定的な居ずまいを強いるというところに疎外のベースがある。そうした距離感を、この空間の主である市電は全く顧慮せず、「僅かばかりな乗客を弾ねとばしてもしまいそうな勢で」加速する。

 とし子の視線は、運転手、市電の側面の雪、点在する乗客の様子、自分の座るべき座席、背中の子供、そして「気附かずに持っていた傘の畳み目」の雪に移り、さいごにやっと顔を上げる。視線が自分の進むべき目的地へ差し向けられるのではなく、車内のあれこれに指示されて、視線が半ば受動的にさまよってゆく。他の乗客や子供や傘を見ながら、その見回しの中心にいる自分が常にひっそりと意識させられている。ひっそりとした公共空間のなかで、自分の存在が否応なく外部から突き放されて縁取られる。単純な「孤独」とは大きく異る、ひどく人工的な疎外感なのだけれど、それが市電の車内という独特の空間によって規定されている。この感覚と規定は、著者が書き出した1920年から現代までほぼ変わっていないのではないか。