しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「聞こえること」の解像度

 自宅のすぐ近くで新築工事が始まっている。足場を組むための槌音や、ホッチキスの親玉みたいなのを打ち込む道具(あれ、なんて呼ぶんだろう)の作動音が聞こえてくる。涼しくなったので窓を開けていたらトテカントテカンガッガッガッと作業の音が聞こえてくる。うるさいなと思っていたけれど、昨日あたりから慣れてしまった。

 大工さんがハンマーや器材で何かを打つ音は、トントントン、カンカンカン、と連続して聞こえてくる。ひとつの「カン」が、ひとつの打撃であることはよくわかる。「カンカンカン」と3回聞こえてきたら、ハンマーを3回打ったということはまず確実である。言い換えれば、「トントントン、カンカンカン……」という一連なりの音は、最小単位の「トン」や「カン」が順に送り出されて聞こえているもの、ということになる。

 

 ツクツクボウシの鳴き声をじっと聞いていると、「ツクツクツクオゥーッシ、ツクツクツクオゥーッシ」という表の歌が目立つけれど、その「裏」に「ジィーーーッ」という低い旋律があることに気づく。「ツクツクツクオゥーッシ!」が次第に切羽詰まって終わったあと「ジィィィー……」と余韻を残す、という鳴き方をするけれど、「ジー…」は実際は「ツクツクツク」の段階からすでに流れているのでは、とおもえる。これは昆虫の専門家に聞いてみればすぐ判明することだろうけれど、いま素人が勝手に想像してみると、ツクツクボウシは「ツクツクオゥーッシ」と「ジィー」を鳴らす部分を別個に持っていて、ひとりで2つの楽器を同時に演奏しているのかもしれない。

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 「ツクツク」と「ジーッ」をこのように「分離」してみた。すると、それはハンマーの「カンカンカン」を3つの打撃に「分解」したのとは、すこし似ていて、すこし違うことに気づく。「ツクツク」と「ジーッ」は同時に聞こえてきて、つねにセットで存在している。「カンカンカン」は順に並んでいる。これが違う点。同じ部分は、聞こえてくるものが、複数の音がひとまとまりになっているということ。

 ひとつの音にはひとつの音源が必ず対応する。人間の耳の仕組みは、どうしてもそうなっている。わたしが「ツクツク」と「ジー」はセミの体内の別個の部分から出ているに違いないと推測したのは、この鉄則を応用したからだ。机を手のひらで叩くと、ばちんというか、ドンというのか、ともかく「手のひらで平たい面を叩いたような音」が、必ずひとつの音として現れる。かならずひとつの音しか出ない。箱を叩いて「ポン」という音と「にゃー」という音が同時に聞こえたなら、箱の中にネコがいるのかと気づくことになる。「ぽん」と「にゃー」をかならず別個の音として聞き分けている。聞き分けた以上、そこには別々の音源が存在していたのだ、ということになる。音の存在が先か、音源の存在が先か、ということは微妙な問題であるように思われる。ひとつの音/声が聞こえてくることと、ひとつの存在者がそこに存在しているということは、お互いをオーバーラップしあっている。

 

 木が風に揺られると、葉擦れの音がざわわぁぁ…っと聞こえる。この「ざわわ」は、ひとまとまりの音として聞こえてくる。「風」と「木」のセットがひとつの音源となっている。(ああそうか、別個のものの「組み合わせ」ということが音には必要だ…これはあとで考えよう)

 けれども、自分は風と木の音をひとつの存在として受け取りつつ、一枚ずつの葉が何百枚も擦れあっていることも理解している。ところがその1つずつの「葉のこすれ」を聞き分けることはできない。しかも、「二枚の葉がこすれて出す音」(つまり風の葉擦れの「最小単位」)はいままで一度も聞いたことがない。それなのに、ざわぁぁー…という音は、その最小単位が何百も重なり合って作られた音だと把握している。