しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「ズキズキ」と「ずきずき」

 授業で擬音語・擬声語と擬態語の区別を扱った。擬音語・擬声語は、「ガシャガシャ」「ワンワン」のように、音や声の様子をことばに表したもの。擬態語は「そわそわ」「うろうろ」のように、ものごとの様子を表すもの。

 書き言葉では、擬音語と擬声語はカタカナで書き、擬態語はひらがなで書く。「音が出ているならカタカナ」と教科書にあり、この区別はわかりやすいと思ってそのまま教えた。

 たとえば机を手で揺すれば鈍い音が生まれる。それは「ゴトゴト」である。それはあくまで近似であって、本当に「ゴトゴト」ではないかもしれない。ただ、ゴトゴトっぽい音が聞こえていることは確かである。

 他方、「うろうろ」している人は、「ウロウロ」という音を発しているわけではない。足音や息の音は聞こえるかもしれないけれど、「うろうろ」はそれを越えた何か、顔つきや身振りやリズム全体を含んで理解される「様子」である。これはひらがなで書くことにしよう。

 

 このように説明したのだけれど、その後、「痛み」の表現について説明したときに困った。日本語話者は痛みを「ズキズキ」「ヒリヒリ」「ガンガン」「ジリジリ」といったことばで表現する。これは擬態語であろう。したがって自分の説明に従えば「ズキズキ」はひらがなで書くべきなのだけれど、どうしてもカタカナで書きたくなる。

 実際、「虫歯がずきずきと痛む」よりも「虫歯がズキズキと痛む」と書いた方が、ズキズキ感はずっとリアルさを増すように感じる。「日焼けした肌がヒリヒリする」と「日焼けした肌がひりひりする」はどうであろうか。

 

 この語感というか字感には個人差があろうけれど、どうも、「音が出ていないなら、ひらがな」と単純に分けられるものではないらしい。これはなぜか。ひとつには、痛みは「様子」ではないかもしれない、ということが考えられる。つまり「ヒリヒリ」は擬態語ではないということ。擬態語はものの様子を表現する。このとき、表現するひとは表現する対象を一定の距離をもって捉えている。自分自身がうろうろしているときでさえ、うろうろしている自分を少し離れたところから観察している。これに比べると、痛みの実感には「距離」がない。ズキズキした痛みを感じている自分と、それを表現する自分がほぼ一体である。ズキズキとした痛みの内側から「ズキズキする…」と表現するほかない。

 この「内側の感じ」はむしろ音や声の感覚に近い。「ガシャガシャ」という音は、その音源から出てこちらに聞こえてきているけれど、それと同時にいったん聞こえている音は自分の実感の「内側」に取り込まれている。

 

 もう一つの理由は、カタカナがひらがなよりもずっとトゲトゲしさをもたらすということ。ひらがなはやわらかく、まるみを帯びる。カタカナは異物として刺さってくる。痛みは自分の身体やこころにまろやかに溶け込んでくるものではなく、むしろしつこく刺さって抜けない。そこに痛みが有る、ということを意識しないでいられない。そのためカタカナで書きたくなる。

 これは音が出ている擬音語・擬声語でもある程度同じで、たとえば「窓がガシャンと割れた」はカタカナで書きたいけれど、「雨粒がぽとんぽとんと垂れている」を「ポトンポトン」と書いてしまうと、なにかが取り逃がされてしまうような気がする。ただ、「ぽとんぽとん」は擬音語なのだろうか、擬態語なのだろうか。「ぽとぽと」なら。「ぽつりぽつり」なら。擬声語・擬音語と擬態語の境目は曖昧なのかもしれない。

 

 話がそれてきたようにも思いますので、ここらで切り上げることにします。