しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

犬が死ぬ

 犬が死ぬだろうから顔を見に来いと妹からLINEがあった。犬は14歳である。3週間前に家族3人で犬を見に実家に戻ったときは、まだよたよたとソファに登ったり歩き回ったりしていた。わたしがこどもを膝に載せていたら、犬はこどもの足の裏をぺろぺろとなめた。こどもは泣き出した。家族の一員として受け入れるという犬からの証なのだろうとおもった。

 このときに犬には今生の別れを告げたつもりだった。だからきょう改めて犬に会いに行けと言われて、一瞬迷った。すでに別れは済ませたのだ。犬の側にもそのような気持ちがあるかもしれない。老醜を晒したくないという思いがあるかもしれない。わたしたちの間には、そのような一定の信頼関係がある。犬はなにも考えていないだろうけれど。

 それでも迷ってから実家に行くことを決めて着替えていると、静かな敬意がこころに湧いてきた。これは調査旅行中の福島で祖父の訃報を聞き、旅程を途上で断って富岡駅から乗った列車内で生じた感情と同じだった。あのときも車窓のなだやかな山並みに視線を置きながら祖父の90年にわたる生涯に対する混じりけのない敬意を感じていた。犬の14年も長い。

 犬はラブラドール・レトリーバー種である。漁師が水揚げをする際に、網からこぼれた魚を港に飛び込んで回収するのが元来の仕事であったと聞く。だから水の好きな犬である。かれが生まれて初めて川の深い水流に入るのを経験させたのはわたしである。

 実家の玄関に入ると生臭かった。犬の周囲の新聞紙や絨毯には血の跡があり、皮膚の一部が破れたものらしかった。皿の水を入れ替えて、皿を傾けて水面を犬の鼻に近づけるとべしゃべしゃと舌を激しく動かして水をいっせいに飲んだ。耳はほとんど聞こえていないという。眼は見えているらしいが、わたしが顔を近づけても明確な反応は無い。

 実家の台所の「容器・包装・プラスチックごみ」を指定袋に片付けてから、父に場所を聞いて妹が借りている部屋に歩いて行ってみると、真ん中の子がおもちゃ箱をひっくり返したとかで母が床にかがんでいた。片付けを手伝った後、上の子と真ん中の子が遊ぶのにしばらく付き合った。部屋を出た。帰り際、「コウ君かえるの?」と上の子が問うたので「うちも赤ちゃんおるからなぁ」と答えた。帰路、とても悔やんだ。