しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

安倍(前)政権とは結局なんだったのだろうか

安倍(前)政権とは結局なんだったのだろうか。いまさら自分なりに言語化してみようとおもう。

ことばを大切にしないひと(たち)だな、というのが前政権に対するわたしの評価である。それは言行が一致しないとか、過去の法規や歴史を蔑ろにするとか、答弁が不誠実であるとか、端的に嘘をつくとか、そういったもろもろのアクションとして現れることであるけれど、わたしが言いたいのはもうすこし根本的な意味で、「ことば」そのものを深く侮蔑したひとびとであっただろう、ということである。人間はことばと共に生きる。政治家はさらに深くことばのもとで生きる。それを拒絶したひとびとだなという評価をわたしはもっている。

ところで前政権がきわめて興味深いのは、かれらがことばを蔑ろにして、ことばを馬鹿にして、ことばを深く傷つければ傷つけるほど、政権基盤が安定したということである。これは日本の憲政史上、類例を見ないことだろう。これこそが前政権の、安倍晋三という政治家の強烈で唯一の個性だったとおもう。

 

本来、政治家は自分のことばに賭ける生き物である。ことばがかれらの職業生命そのものである。その意味で政治家は作家や教師や詩人と実は近いところにいる。政治家が作家と異なるのは、ナマモノの流動する公共世界でこそ自身のことばが生命を持つ点である。演説、説得、弁明、雑談、討論、傾聴、交渉、こうしたすべてが公共のことばの生命の現れであって、政治家はそこでこそ輝く。

したがって過去の政治家はその功罪・清濁・優劣・大小を別にしても、いずれも自身のことばに自信と信頼を持っていた。前政権より前の総理大臣はみないずれもそうであって、かれらがいかなる技能や家系や幸運や胆力や財力でもって政治生命を延伸していたにしても、最終的にそれはすべてかれら自身のことばによって担保されていた。かれらはことばによって権力を勝ち取り、ことばによって権力を失った。

それはかれらがことばに対して一貫して誠実だったということではない。むしろ逆で、かれらはことばをぎりぎりまで搾取していた、と言ってもいい。ただ、ことばを搾取することができるのは、ことばというものを、そこから自分が利益を得ることのできる存在であると考えているからだ。それはことばに対する一定の信頼の現れでもある。

小泉純一郎氏が現役の首相であったとき、委員会で「自衛隊の派遣されるところが非戦闘地域」とか、年金未納を問われて「人生いろいろ、政治家もいろいろ」と開き直るように言ったことがあった。このように言うとき、かれは不誠実であったけれども、同時に、自分の言っていることが論理的におかしい、政治的・倫理的に危ういことだという自覚を持ちながら話しているようでもあった。表情の端っこにはにかみや気まずさがあった。それは政治家と市民のあいだに最低限の紐帯をたもつ余地にほかならなかった。同様に、郵政民営化を問う総選挙で小泉氏は「自民党をぶっ壊す」というフレーズによって有権者を「劇場」にいざなった。そのとき小泉氏は有権者の熱狂とは正反対の、あまりに冷徹な票読みと戦術戦略を貫徹していたはずである。 だがその一方で、有権者を冷徹に扇動しつつも、小泉氏自身がその扇動のなかに自分を叩き込んでいた。伸るか反るかの賭けに国民の生命を運命を投じ、自分自身の政治生命をも賭けた。それもまた戦術の一つにすぎなかったかもしれないが。 

このようなことばへの信頼関係(それは搾取も含む態度であって、詩人のような純粋なものではないが)は、その政治家の立ち居振る舞いや性格や顔つきに反映した。だから政治家の立ち居振る舞いを知ることは、かれのことばへの関係を推測することにもつながった。ひらたく言えば、どの政治家もそのひと特有の「キャラ」を持っている。そのキャラ自体はひとによって好き嫌いがあろうけれど、たとえば福田康夫というひとがその人のキャラを、麻生太郎というひとがその人のキャラを持っていることはたしかであって、そうしたキャラとかれらのことば使いが共振していることが信じられている。

 

こうしたひとびとに対して、安倍政権は、また安倍晋三氏は、ついに自身のことばを持たなかった。したがってかれ固有のキャラクターや表情の陰影を持たなかった。表情といえば眉間のシワだけだった。

かれは自分のことばやキャラを全く必要としていなかった。かれが実行したのは自分の政権における言語活動を徹底的に無意味にしたことである。首尾一貫性や、共感や、論理性や、対話性をかれは完全に廃した。それによって政権運営は盤石になった。これはものすごい発見であったとおもう。ことばを無意味にすれば、ことばに縛られる必要もなくなる。ことばに縛られることがなくなれば、行動が自由になる。行動が自由になれば、ことばによって国民とつながらなくても支配を強化できる。支配を強化すれば、ことばを無意味にしても問題が無くなる。これは日本の憲政史上初めてのことだったはずである。

ことばを完全に侮蔑し、消失させることで、官邸と政権は日々の行動の意味を失い、機能に徹した。これは安倍氏にとってもそれなりに辛い交換だったかもしれない。憲法改正といった、かれ自身が希求していた意味も手放すことにつながるからだ。しかし実際にかれはそれも手放した。ことばに価値や意味が無くなるのであるから、現憲法も無意味になるし、その改正も無意味になる。「憲法改正」や「戦後レジームからの脱却」といったフレーズはいちおうは発声され続けたけれど、実際のところ言語上の意味は完全に形骸化していたのだとおもう。あくびの伝染とか、アリ同士の触角の触れ合いとか、画面に指で触れるとATMのお札入れの蓋がびーっと開くとか、そういったぐらいの「AといえばB」の次元に転化していた。

左派や知識人はこのパラダイムシフトに対して完全に無力だった。かれらはことばの力を信じる人びとだからだ。滑稽なことだった。

 

なぜ安倍氏は自分のことばをそこまで侮蔑することができたのだろうか。この侮蔑という営為にかれの精神的・身体的能力のすべてが賭けられていたように思われる。

ことばを馬鹿にすると支配を固めることができるということのほかに、安倍氏のもうひとつの発見は、ことばを馬鹿にすると意外と多くの味方を直接獲得することができるということである。そうしたフォロワーの多くは、ことばから直接に力を得るという習慣や経験を持たないひとびとだったとわたしは推測する。かれらはことばに信頼を置くひとびとからしばしば見下されてきた。安倍氏はことばを馬鹿にすることで、ことばに信頼を置くひとびとを(その多くはやはり左派である)も馬鹿にし、支配できることを見せつけた。いまや優劣が逆転したのだ。ようやく奴らを馬鹿にし返すことができる日が来た、というわけである。

そうして、全く無価値な侮蔑の応酬が10年近く続けられた。左派は右派を、右派は左派を馬鹿にした。その多くが品位を失った。とりわけ安倍政権に反対するひとびとは、精神力の全てを投じて安倍氏を馬鹿にした。かれは漢字が読めなかった。かれは追及されると感情的・反射的にまくしたてた。馬鹿にするための材料はいくらでもあった。だが安倍氏は全く動じなかった。ここにかれの恐るべき強靭さ、恐るべき空虚がある。これに比べると左派は全くの甘ちゃんだった。格が違った。日本中で安倍晋三氏をもっとも馬鹿にしていたのは、安倍氏自身だった。その徹底的自己侮蔑の深みに左派は誰も及ばなかったし、政権内のひとびとも同様だった。それによってかれはことばへの侮蔑を維持した。わずかでも自己への信頼や責任や反省が残っていれば、ことばの徹底的な侮蔑は不可能である。安倍氏以上に安倍氏を侮蔑していたひとはなかった。