しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

雑巾を絞る

 日本の公的組織における危機管理の特徴として、危機対応業務の質・量が平時業務より大きく変化しても、平時の組織体制や仕組みを温存したまま、各対応機関の能力の余地を使い尽くすことで、その倍加する業務を捌こうとする点が見出される。要するに各機関・各部署で大幅に「無理をする」ことで乗り切ろうとする思想である。

 今回の国内のコロナ対応は全般にこの思想に沿っている。既存の病院の病床を最後の一滴まで雑巾を絞るように捻出する、というのが最初の選択だった。ところがこの思想は、各機関が平時に蓄えていたマージンを使い尽くすものだから、ぶっこまれてくる業務量がそのマージンをも超えれば限界に至る。実際、ドミノ倒しのように病床や保健所の能力が限界に至り、その末端では救急車の隊員が在宅の入院不能患者のもとに酸素ボンベを運ぶといった状況が現れている。

 この思想が一概に悪いとは言えない。平時の体制は極めて効率化されているので、その体制内に温存されていたマージンをまず使うことは、対応能力を迅速に最大化することにつながる。他方で、この方式はやはりいくつもの欠点がある。マージンを使い尽くせばそれまでであり、その臨界点を越えると業務が平時の組織体制全体においてオーバーフローする。堤防の決壊部分のみをなんとかするという対処ではなく、ダムが越水し堤防全体において越流が生じ続けるような状態に陥る。

 また、どれだけ現場が努力してもマージンは平時の能力の数割が限界である。100床の病院が120床まで頑張ることはできても、100床が300床になることはない。さいごに、マージンが払底し、臨界点を超えると、全体の効率が下がることである。余力を使い尽くすことは言ってみれば部分最適化にすぎない。搬送先が見つからず救急車が車内の患者を必死にケアしながら市中をさまよう状況は、全体の効率という観点がすでに消失したということなのだろうとおもう。

 この〈マージン使いつくし〉に対するもう一つの考え方は、危機の事情に合わせて平時の組織体制を大幅に組み換えることである。コロナ対応で言えば「野戦病院」案(これも曖昧な表現ですが…)がこれにあたると思われる。この考え方の要点は、医療資源を一箇所に集中させて、質・量ともにスケールメリットを狙うことである。

 他方で〈大幅組み換え〉にもいくつかの欠点がある。第一に当初は全体効率がいったん落ちるだろうということである。平時の組織体制が持っていた効率性をいったん手放すことになる。次に、対処すべき危機対応業務の総量を見積もることが難しいことである。野戦病院の例で言えば500床が適切なのか1000床なのか、近い将来を見越して良い塩梅の数字を決め打ちすることが必要になる。これはある種のセンスが求められる。また、こうした大幅組み換えはたいていの場合それぞれの現場や意思決定者にとっては初めての試みになるので、そもそもこれはうまく回るのかという当然の疑問が生じる。これを乗り越えるというコストがかかる。

 以上のように、〈マージン使い尽くし〉思想も〈大幅組み換え〉思想も当然に一長一短であって、日本のコロナ対応がおおむね前者に偏っていることそのものは単純に否定されるべきではない。

 本当の問題は、2つの考え方を選択できる状況を確保できなかった(できていない)という点にあるとおもう。〈大幅組み換え〉を発動するためにも、それなりの余力が必要である。オフィスの模様替えをすれば従業員の動線が大幅改善することがわかっていても、繁忙期の真っ只中に模様替えを始めるひとはいない。マージンを使い尽くすこと、最後の一滴まで絞り切ることに専心しすぎて、大幅組み換えが必要とわかっていても、そのための余力がすでに払底している。〈マージン使い尽くし〉方式の本当の恐ろしさがここにある。現場努力で即座に個別最適化することで、全体としてはかえって戦略的な手詰まり状態に自ら陥ってしまう。

 とすると、なぜこのような状態にはまりこんでしまうのか、ということを考えておく必要がある。