しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

麻婆豆腐のような世界

数年前に沖縄に行ったとき、地元の戦跡・基地ガイドの方と、国道を走るレンタカーの中で、ニューヨーク同時多発テロ以降、世界は見せかけの秩序さえ失って、ひたすらぐずぐずになったように感じる、と話した。その方も深くうなづいておられた。

9.11以前の世界には、いちおうの秩序のようなものがあった。実態として有ったのではなく、秩序のイメージのようなものに過ぎないのだけれど、ともかくもそのイメージがあった。それは何ら強固なものではなく、やはり見せかけで、言ってみればこんにゃくゼリーのようなぶよぶよとしたものだった。ただ、こんにゃくゼリーは一応それ自体でかたちを保っている。アメリカというこんにゃくゼリー、ヨーロッパや中国やインドや南米やロシアといったこんにゃくゼリーがあり、またキリスト教、イスラーム、権威主義、平和主義、資本主義といったもろもろのこんにゃくゼリーがあった。

秩序(のイメージ)を維持するために、ゼリーの内部やゼリー同士の境界面では凄惨な抑圧や暴力が当然に続いていた。だから、9.11以前の世界が「良かった」とはわたしは決して言わない。ただ、表面的で建前にすぎないものとはいえ、秩序がみずからを活かし続けるためには正しさや合理性が必要だということも前提とされていた。どれだけ腐敗したこんにゃくゼリーであっても、進歩や改善は完全には廃棄されておらず、少なくともその建前を論ずる余地はあった。

同時多発テロ以降、このこんにゃくゼリー的な秩序が完全に崩れたように感じる。豆腐同士が衝突していずれもグズグズになり、建前すら消失して先の見えないごった煮になった。世界全体が麻婆豆腐になったようなかんじ。

数機のジェット機がこんにゃくゼリーを麻婆豆腐に転換させたのではなく、その転質はずっと以前から続いていたのだろう。ハイジャック機の突入はその最後の仕上げあるいは引き金にすぎなかった。

麻婆豆腐的な世界のなかでは建前も道理も無くなる。剥き出しの利益追求と情報拡散と排外主義が、自身の行き先がわからぬまま茹で続けられ対流している。その鍋の中で人々は耳目が及ぶ範囲で完結する擬似秩序を求める。正義や理念の支えを持たない、ただルールであるだけのルールさえあれば自分と他人を抑圧するのに足りて満足している。そうして日本はマナー講師だらけになった。