しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「関ジャニ」の事件は研究者にとっても他人事ではないとおもった

このエントリを読んだとき、他人事ではないなとおもった。

じぶんは「研究」として、いわゆる「一般のひとびと」にインタビューをすることが多い。とても乱雑な言い方だけれど、この番組でタレントが行ったという「街で歩いているひとを呼び止めて、話を聞こうとする」という所業は*1、研究者が対面調査においてやっていることと本質的におなじであるとおもう。

 

まずはじめに、この企画がもつ問題点を自分なりに表現してみたい。

通常のTV番組の「街頭インタビュー」では、

1)タレントやアナウンサーが見知らぬひとを呼び止める

2)振り向いたひとの表情(驚き、不安、怪訝な顔、喜び、拒絶反応)が映される

3)シーンがいったん切られて、「呼び止められたひとが、カメラの前に正対して立ち、インタビューに答える」場面が改めて流される

という流れをとることがおおい。

 

ここで2と3の間にいったん「間(ま)」があること、時間の流れが切断されてからつなぎあわされていることが重要になる。2と3が切られていることで、その間にインタビュアーと通行人のあいだでやりとりがあったことを視聴者は推測することができる。そのやりとりにおいて、番組の意図の説明や、インタビュー協力の同意などが話し合われたのだろうということが暗黙の内に伝わる*2

説明と同意が番組と通行人の間に成立したことが2と3の流れで暗示される。それによってはじめて、1から2の流れも正当化される。呼び止められた通行人がはじめ不安そうな顔や拒絶反応を示したとしても、最終的には納得し同意したということが示される。視聴者に不安感や不快感を与えない「街頭インタビュー」モノの企画は、おおむねこのような編集技法が用いられている。

 

番組本編を見ていないので推測になるのだけれど、この番組の放映では1と2だけでコンテンツを成立させようとしてしまったのではないか。つまり、一般のひとを突然呼び止め、それに対する反応をおもしろがり、そのまま放映してしまった。2から3の流れがなく、1と2だけで「笑い」や「いじり」の対象として消費した。相手の同意を得ないまま反応を楽しんだとすれば、それはいじめと変わらない。

例外として、タレントや政治家が対象である場合は、1と2だけでコンテンツを組むことも許容されている。たとえば「収賄の疑いが持たれている政治家をインタビュアーが追いかけコメントを取ろうとしたが、政治家は何も答えず足早に去ってしまった」といった場面である。ただしこの場合もケースごとに判断が必要になるだろう。

 

当該番組の制作者やタレントがこのようなことをしてしまった理由については、上記エントリでていねいに検討されている。

わたし自身がこわいなと思ったことは、かれらのあやまちの根底にある心理的な要因は、研究者にとっても無縁ではないということである。この企画の関係者には「テレビだから」「アイドルだから」「相手が女性だから」といったまなざしがあった。これを「研究なのだから」「社会的な意義があるから」に入れ替えれば、研究の場面においてもこの企画と同様のことが生じうる。共通している構造は、「〜〜なのだから、これぐらいは許されるだろう」という設定が、相手ではなくこちらの側で完結して発動してしまうことである。いったんそれが駆動しはじめると、相手のいやがる表情すら「調査」「取材」「番組収録」の欲望のなかに取り込んでしまう。

 

そのようなことがあってはならないということは、質的研究や社会学や心理学の教科書には必ず書かれている。けれども、頭でわかっているということと、「ついその場でやらかしてしまう」ということは両立しうる。それは事前の倫理審査ではなかなかカバーされない。最終の成果物として世に出る論文や報告書では「倫理的配慮」がゆきとどいていたとしても、それ以前のさまざまな過程ではいろんなことが起きる。

 

けっきょく、自分のなかにある「初期設定」のようなものを何度もくりかえし吟味するほかないのだけれど、締切などに追われていると、すぐにその吟味の成果を手放してしまう。こわいことだとおもう。

 

 

*1:以下、番組内容を直接確認していないので、細かいところが間違っているかもしれない。

*2:実際にきちんと説明や同意がなされたのかは別問題。