研究計画を新しく立てて、先行文献をざくざく読んでいる。
これはなんだか参考になるようだ、という論文を見つけた。しかも著者は地元のひとだった。迷惑承知で、会いに行ってお話を伺ってみようかとさえ思った。テンションが上がる。
コンスタントに論文を出しているひとだったが、Ciniiで見てみるとここ数年は何も書いていない。別の活動をしているのだろうかと改めてお名前でググッてみると、教え子に対する性暴力事件で逮捕されていた。
マジメに生きてくれー!とモニタに向けて言ってしまった。
事件の詳細は引かないが、どうにも悪質陰湿な事件で救いようがないかんじがした。悪質でない、救いようがある性暴力事件というものも無いのだが。
そこで困ったのが、このひとの論文を参照文献として挙げたものであろうか、ということである。参照しなければ自分の研究が成立しないというほどではない。
これは先日の「俳優が薬物使用で逮捕されたなら、過去の出演映画をお蔵入りにすべきか」という問題と似ているように見える。しかし、「俳優に罪があっても、映画作品に罪はない」と仮に言えたとしても、「著者に罪はあっても、論文に罪はない」と言えるかどうか。微妙なところだとおもう。
映画はいろいろなひとが関わって成立するけれど、論文は基本的にひとりで書く。とくに人文方面では、著者の考えや活動や来歴が論文にそのまま詰まっているとみなすのが一般的であるようにおもう。すると、著者と著作物の分離が難しい。この点、実験科学などで大量のオーサーが名を連ねていて、機器操作に参加していた一人が不祥事を起こしたというケースならば、「映画と俳優」のケースに近いかもしれない。また、たとえば新天体の発見を報告する天文学の論文であれば、著者が逮捕されたからといって新天体が見つからなかったことにしようということにはできないだろう。今回はそういったタイプの論文ではない。
研究分野と犯罪分野(?)が重なっている点も大きい。教育に関する分野の論文を書いているひとが、教育現場で罪を犯していた。論文を書く元となったさまざまな活動の中に(直接か間接かは別として)、被害者の存在がある。
論文は論文、犯人は犯人、として分離できるかどうか。論文は、文の連なりである。一つずつの文や、それらがまとまってできた文章が意味を持つ。その意味は常に正か誤であって、善か悪かではない。内容の正しさは著者の人格に無関係に成立する。正しいことを書いているが著者がイヤなやつだから引用しないとか、内容は間違っているが著者と親交が深いから是認するということはできない。そんなことをしていたら自分自身の研究がガタガタになる。その意味では、論文の内容そのものに「罪」を見出すことはできない。
しかしまた、引用・参照することは、論文だけでなく、著者の存在を承認するということでもある。立派なものだ、価値あるものだ、それを書いたひとも大切なひとだ、とみなすことになる。そのように宣言するだけの動機が自分にあるかどうか。とくに暴力的事件の場合、加害者を擁護するとみなされる立場に立つことは、被害者にとって、自分への追加の攻撃のように感じられる。「それはそれ、これはこれ」という安易なエクスキューズに走ることが全く適切でない領域であるとおもう。