しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

大震法の時代

 「大規模地震対策特別措置法」という法律がある。大震法と略される。1978年(昭和53年)に成立した法律で、いわゆる「東海地震」の予知を前提としている。観測網が東海地震の前兆現象を捉え、学識者からなる「判定会」が東海地震の危険が迫っていると確認し、最終的に内閣総理大臣が警戒宣言を発令する。警戒宣言は非常に威力の強いもので、中京地域の産業をすべてストップさせるに等しい。

 この「大震法」制度は①東海地震が近いうちに生じる②東海地震は観測網の整備により予知が可能である、という2つの仮定を前提としている。大震法が成立したころは、地震予知が将来的に可能だという立場が国内の地震学にあった。すなわち、「数時間以内、数日以内に、この地域でこの規模の地震が発生する」という宣言が可能になるのではという見込みが学界に存在した。この立場は現在は否定され、「30年以内に80%」といった長期予測が基本になった。

 

 とはいえ地震予知が可能だという確固たる定説が学会にあったわけではない。ところが、それを前提とした法律が、しかも特定地域・特定地震についての特措法が突然成立している。これは今になって見てみると、非常に不思議なことだ。

 ことの発端は、地震学者の石橋克彦氏(当時、東京大学地震研究所助教)が、1976年に駿河湾地震説を報告したことだとしばしば言われている。これにマスコミが食いつき、静岡県知事ものめり込み、他の国会議員や地震学者も積極的に参与して、あれよあれよというまに法律が成立してしまった。

 石橋氏は駿河湾地震説の報告当時、32歳前後のはずである。時代や分野によって異なるだろうけれど、32歳の助手というのはいわゆる「若手」である。もちろん学問に年齢や職位は関係無いので、若手でも「大御所」でも、正しければ正しいし、間違っていれば間違っている。若いから、職位が低いから軽く扱って良いということにはなるまい。アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのは彼が26歳のときだ。ただ、地震予知という、理論物理学よりもかなりフワっとしたところの残る分野で、つまり説の正誤がきっちりとシロクロ付けづらい分野で、一人の若い研究者の報告をきっかけとして、わずか2年でこうした大掛かりな法律と体制ができあがるというのは、やはりどこか異常であったようにおもう。石橋氏の最初の報告自体に科学的な根拠があったとしても、そこにさまざまなアクター(政治家、大物研究者、官僚、報道、世論)が奇妙な仕方で「乗って」ゆく流れがあった。

 泊次郎『日本の地震予知研究130年史』は、同法の国会審議を丁寧に追ってこのあたりの力学を描き出している。本来ならば、(東海)地震の予知が可能だという科学者側の意見の一致をまず確認して、それから観測網や警戒宣言の立ち上げを議論すべきだった。ところが本当に予知ができるのかという議論に対しては、科学者も官僚も微妙に腰が引けたような、と同時に可能性を強く押すような意見をマゼコゼに出していて、あるべき議論の手順が踏まれていないように思われる。後出しジャンケン的な物言いになってしまうが、「どうもこれはガンガン突き進んじゃいけないプロジェクトなのではないか」という意見を出すひとが国会の議論の当事者のなかに見当たらない。「こう言ったからには、こう言わざるを得ない」という、科学や立法の論理とは別の論理で法律がつくられ、予算が付いている。不思議でならない。

 

日本の地震予知研究130年史: 明治期から東日本大震災まで