『日本三代実録』巻16に、貞観地震津浪についての短い記述がある。
真っ黒な海が盛り上がって津浪が押し寄せ、内陸の数十百里も海となってしまい、その果てがわからないくらいだった… といった意味らしい。
そのなかに「乗船不遑。登山難及。溺死者千許」という文章がある。「船に乗る暇もなかった。山へ登ることも難しかった。千人あまりが溺れ死んだ」と読み下すらしい。
この箇所を読んだとき、そのままにその文意を受け取って、それきりになった。ああそうか、船に乗って逃げる余裕も無かったんだな、山へ登って逃げることもできなかったんだな、という。地震計も津波警報も無い時代である。船に乗る暇もなかった、山へ登ることも難しかった。確かにそうだったのだろう、と東日本大震災のあとに生きている現代のわたしはうなづく。
貞観地震津波は東日本大震災と関連付けられて言及されることが多い。それはおおむね、同じことが繰り返されてきた、という文脈であるように思われる。そしてその「繰り返されてきた」という感覚には、同じ失敗が反復されているという考えが連なる*1。この同じ失敗の反復という考えのさらに根っこには、同じ失敗は繰り返されるべきではない、時間と歴史の経過にしたがってわたしたちはより賢くなってゆくべきだ、という考え方がある。
ただし、貞観地震津浪から連続して現代の津波防災対策が発展してくるという捉え方は現実的ではない。もうすこし正確にいえば、そこにあるのは「東日本大震災の以前に貞観地震津波のことをよく知っていれば、あの震災の被害をもうすこし減らせたのではないか」という慨嘆だろう。とはいえ、発展や進歩や学習というまなざしで過去の災害と現代の災害をつなげて考えるという点ではやはり同じである。
わたし自身は基本的にこの考え方に立って生きているとおもう。ただ、「乗船不遑。登山難及」という8字を読んだとき、その考え方がふいにリセットされる感覚に襲われた。貞観地震津波(869年)から1100年以上が経っているけれど、そうした時間の流れや蓄積といった「距離」がとつぜん無くなり、東日本大震災と「乗船不遑。登山難及」の貞観地震津波が、重なるのではないけれども、いずれも時間から離れたところにある。船に乗る暇もなかった、山へ登ることも難しかった……確かにそうだったのだろう、というときの「だろう」という感覚が、それ自体はたしかに災害という出来事と一定の距離をなお持っているけれども、その距離感覚は何か死者と生者、生存者と安全地帯の自分の対面感覚であって、時間や歴史のへだたりの感覚ではない。それは東日本大震災に関する自分の対面感覚と質の面では同じで、いずれも時間の近さ遠さを越えて「(すぐ)そこ」にある。
このように印象の残響が重なり合うとき、発展や進歩や学習という視線は成立しえない。とすると、(これは矢守先生がどこかで書かれていたことだが)自然災害の歴史というものは果たして成立しうるのか、ということが疑問になる。
*1:もっとも、そうした観点ではチリ地震津波、昭和三陸津波、明治三陸津波が先に連想されるが