しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

村の名誉(北原糸子『磐梯山噴火』)

 さて、さきほど紹介した碑文を写し終わって村の屋敷地へ向かう一本道を歩いていると、ちょうど途中で村の人らしい中年婦人に出会った。そこで、私は碑のことを尋ねてみた。すると、ご自身のお祖父さんが山内弁次家でひとり生き残った山内竹次さんで、当時数え年三歳だったという。この偶然の僥倖に、私は天に深く感謝した。そして、どのようにして当時三歳の子が災害のなかを生き抜くことができたのかなどを矢継ぎばやに質問して、アッという間に道端で一時間を費やしてしまった。(…)

 結局、道端でいろいろお聞きするだけでは不十分なので、再訪を約してその場を辞した。それから、再び11月、雪に降り込められてしまう前に、長坂の山内家を訪ね、詳しくお話を伺うことができた。ご当主の山内房吉氏のお話でもっとも印象的な言葉は、この長坂の被害の大きかったことについて、年寄りを置いて自分たちが我先に逃げようとしたため天罰が下ったという新聞の記事があるそうだが、全くの偽りで不名誉なことだ、と100年前のことを今も村のために悔やんでおられることだった。真相は、野良で若い人たちが仕事をしていた所を土石流が襲ったのだということであった。この話を聞いて、私は長坂集落の死亡者の異常な高さを不思議に思っていたからその謎の一端が解ける思いであった。

 と同時に、100年以上も前の新聞記事が深く村の人びとの胸に突き刺さり、村人の大半の命が奪われた無念さに重ねられて記憶されていることになんともいえない気持ちになった。

(北原糸子『磐梯山噴火 災異から災害の科学へ』吉川弘文館、1998年、pp.168-170)

 

 「記憶」はただ純粋に記憶として保存・伝承されるのではなく、郷土愛や郷土の名誉の感覚とも結びついている。そうした感覚が生存者やその子孫が死者と共有できるものの一つであるからかもしれない。