しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

奄美へ行った

 大学院時代に旅行記を2回書いている。

Trip to Toronto(2期生高原さんの独占ルポ) | 大阪大学 未来共生イノベーター博士課程プログラム

From: T(2期生「海外インターンシップ」@タイ) | 大阪大学 未来共生イノベーター博士課程プログラム

 その後も小さな旅行に何度か行ったけれど、まとまったかたちで文章に残すことを怠ってきた。書かなければ忘れる。

 

 先週から昨日まで、奄美大島に4泊5日で旅行した。全くの観光旅行だった。そこに有るものを観て喜んできただけである。とはいえ多くの印象があった。いくつか書いておくことにする。

 

Day  1

 関西から奄美大島は意外と近い。伊丹空港からJALに乗って90分で奄美空港に着陸する。空港は島北部・太平洋側にある。そこから北端近くの「あやまる海岸」にゆくと、価格の無い青空と水平線がそのまま広がっていた。

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いきなり非日常だった


 奄美は海見である。波がほとんど立っておらず、海中を覗き込むと濃い色の小魚がゆたゆたと泳いでいる。干潮の時間帯らしく、珊瑚が作った浅瀬がしばらく広がる。おそらく火山性の黒い岩が写真のようにころがっていて、幸福なようでこの世の終わりの後のような風景でもある。直射日光を受けて、水面下の藻がしきりに泡を出している。薄い水面に小さな泡がぽこぽこ昇っている。それを見ることができるほど波が無い。旅行者にはすでに非日常の世界と映る。

 

Day 2

 2日目は加計呂麻島にゆく。奄美大島南端部の古仁屋港からフェリーに乗って20分で加計呂麻島に着く。フェリーの船員さんはみな肌が焼けている。郵便局の赤いミニバンも乗船する。

 奄美大島には蝶がきわめて多い。加計呂麻島にも同様に多い。両島を隔てる大島海峡の上を蝶が飛んでゆくのを船上から見つけて驚いた。対岸に渡るのだろう。海峡を渡る蝶と書くと詩的だけれど、実際に目の当たりにすると奇妙と感じるほかなかった。

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対岸が加計呂麻島

 加計呂麻島には「震洋」の基地跡と、島尾敏雄の文学碑がある。文学碑には『死の棘』を「愛の高みを祈り刻んだ文学作品」と讃えていたが、作品の筋を考えるとこれはどうにも滑稽な評と感じる。「高み」と言っていいのだろうか。

 文学碑は島尾敏雄が隊長を務めていた震洋攻撃隊基地跡の、その中心部に設置されている。170名前後の兵士が起居していたという。170名それぞれに物語があったはずなのだけれど、隊長とその恋人の逢瀬の物語だけがドカンと基地中心部に顕彰されているのも、どことなく喜劇的な光景である。

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震洋」待避壕

 文学碑から海岸に歩くと、写真のようなカマボコ型のトンネルが戦時のまま遺されている。内部に特攻艇「震洋」を隠していた退避壕である。写真のものは見やすくされているが、他の壕はすでにマングローブに濃く隠されている。

 震洋の名前は知っていたが、基地跡を見るとその規模の小ささに驚く。ここから20隻の特攻艇が出撃して、仮に半数が首尾よく命中して、10隻の輸送船や駆逐艦が沈むか大破したとして、それで戦略的にどのような「次」にどのようにつながってゆくというのか。仮に最上の戦果を挙げたとしても、米軍の侵攻を1週間か1ヶ月か遅らせることができたとして、そこにどんな意味を見い出せというのか。

 

 加計呂麻島からの帰りは18時のフェリーに乗った。島をぐるりと回って1時間ほど余ってしまい、船着き場でぼんやり過ごした。船着き場は広い駐車場になっていて、工事労働者が5、6名すわりこんでいる。わたしたちのような観光客が他に2組ほどいる。島内を回る町営バスが1台ずつ集まってきて、ドアを開けっぱなしにして止まる。みんなフェリーが来るのを待っている……と思っていたら、小型のプレジャーボートが先に来て、これが海峡の乗合船だった。工事労働者は慣れた足取りで舳先から乗合船にのりこんだ。5歳くらいの女の子を背負った若い母親らしき女性がひとり、そしてまた同じような年頃の女の子を背負った別の母親らしき女性がひとり船着き場に来て、お互い世間話をしているようである。このひとたちも対岸に渡るのだろうかと思って見ていたら、そうではなかった。奄美大島から帰ってくるだれか、たぶん夫であり父である働き手か、そうした家族を待っているのだ。そうして対岸の古仁屋港を出たフェリーの船体の一面が西陽によって白く輝き、それが速度を出すことなく近づく。ついに着岸してもやい綱が船着き場に巻かれる。がらがらとフェリーの乗車板が降ろされると、まず奄美大島側で働いていたひとがぞろぞろ降りてきて、町営バスに乗るものもあれば、迎えの軽トラに乗り込むひともいる。高校生らしきひともいる。先程の女の子たちは母親の背によじ登ったり降りたりをくりかえしている。一日だけの島回りの観光客は、おかえりなさい、という彼女らの視線の先を探すひまなく乗船した。

 

Day 3

 染色工房の職人らしき初老の男性に神戸から来たと申し上げると、あのあたりには奄美出身者も多い、自分の親戚も仕事場兼自宅が全壊した、と言われる。最近はこのような体験が多い。神戸から離れると神戸のことを聞く。ひとびとの語りの吸い取り紙のようになっている。

 

Day 4

 金作原原生林を見学する。国立公園であり、認定ガイドの同行なく入ることはできない(法律上の罰則規定は無いのだが)。わたしたちは「観光ネットワーク奄美」のガイドを頼った。9時に名瀬を出発して昼過ぎに戻る。ガイドの方に説明していただいて初めて知ったことだが、奄美市の沿岸市街部の大部分は、戦後、人口急増に伴って大規模に埋め立てたエリアである。埋め立ては数度にわたって行われ、沿岸部道路沿いには古い埋め立てエリアの防潮堤がそのまま遺されている場所もある。博物館で新旧の空撮写真を見ると、埋め立てによって湾が狭められていった過程がよくわかる。

 

 その後、「あまみ庵」という古書店に入る。これが「濃い」古書店で、仮に奄美大島に大学を作るとすればこの書店がそのまま附属図書館になるような、奄美に関する本をとにかく全て集めた場所である。以下4冊を購入する。

●本田硯孝編著『奄美民話集2 吉永イクマツ媼昔話集 1984』道の島社、1984

●本田硯孝編著『奄美民話集3 池水ツル媼昔話集』1988年

立命館大学説話文学研究会編『昭和五十六年度・五十八年度調査報告 奄美笠利町昔話集』1986年

●昇曙夢『復刻 大奄美史』南方新社、2009年

 

 2冊の『媼昔話集』は強烈な磁力を発している。『吉永イクマツ媼昔話集』では、このイクマツさんというお婆さんが一人で語った170もの昔話が採録されている。ものすごい記憶力。

 左側のページに録音テープそのままの書き起こし、右側にその大和言葉訳が併記されている。左側のページを読んでもほとんどわからないのだが、右側のページを読んでもやはりよくわからない。物語として整形せずに、語ったままをほとんどそのまま載せているようで、「あの話は昔は覚えていたんだがなー」といったつぶやきで始まるものもある。ストーリーがあるような無いような、おばあさんがもにゃもにゃ喋っていることだけがわかる。でも同じものは一つもない。

 

 その後、同じ名瀬の奄美市立博物館を見学する。小規模だが丁寧にまとめられた博物館で、奄美大島の複雑な地政学的位置をよく学習できる。日本、中国、そして戦後はアメリカという勢力圏が重なる地点で複雑・多重的な支配を受けてきたのが琉球であるとすれば、奄美大島はさらにその琉球と薩摩・鹿児島の勢力圏の中間にあり、文化や歴史の混じり方もなお複層的である。

 博物館の展示を追ってゆくと、時代ごとに支配者が変わっていったことがわかるが、なかでも幕末から敗戦までの薩摩藩・鹿児島県の支配は苛烈である。薩摩藩奄美大島に為した悪行が2つある。ひとつは島を藩の財源とするためサトウキビのモノカルチャー化を推し進めたこと。島民に黒糖のみを栽培させ、その黒糖と米を薩摩藩がもっぱら交換する。交換の比率は薩摩藩が決める。そうして低い相場で手に入れた黒糖を改めて一般市場で売却することで、薩摩藩は現金収入を得る。この仕組みは黒糖地獄と呼ばれ、明治維新後も鹿児島県によって続けられた。その「地獄」を終わらせたのはGHQである。

 もうひとつは島内の歴史文書の隠滅である。薩摩藩奄美大島内に遺存していた歴史文書を回収し、これを焼却した。こうして昇曙夢が嘆くように、奄美大島は先史時代よりひとが住んできた場所でありながら、島民自身による成文史を実質的にほぼ持たない島となってしまった。

 博物館の展示を見ながらわたしが困惑したのは、こうして薩摩藩・鹿児島県にいじめ抜かれてきたにもかかわらず、戦後すぐに本土復帰運動がなお苛烈に展開されたことである。敗戦後、奄美大島ふくむ南西諸島はGHQの占領下におかれ、米國民政府が置かれた。本土復帰運動が占領直後から始まり、1952年に占領が解かれ奄美大島は鹿児島県の一部に戻る。復帰を求める署名は島民の99.8%に達した。

 展示では、薩摩藩・鹿児島県の圧制が強調されるコーナーのすぐとなりに、本土復帰運動を紹介するコーナーがある。この展開に困惑する。あれほどまで弾圧された鹿児島県ひいては日本に、なぜ戻りたがるのだろう。独立国家となる、アメリカの一部となるという選択肢はもちろん現実的ではないにしても。

 映画『葛城事件』で、三浦友和演じるDV父親が、別居を始めた妻と次男のアパートに押し込み、次男を殴りつけたあと、「まぁ、みんなで家に戻ろう」と半ばあきらめたような口調で言うシーンがある(映画では実際に元の家に家族は戻ってしまう)。奄美大島の本土復帰直後に鹿児島県知事の名代が来島して祝辞を述べたという説明に、映画のこのシーンを思い出してしまった。「支配」ということの真の恐ろしさはここにあるような気がする。

 

Day 5

 最終日は風が強まった。前の晩は強い雨が降っていた。雲に覆われ、海の色も暗くなり、波頭が白くなった。枝葉の上を抜けてきた海風が耳元で鳴る。

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 奄美市歴史民俗資料館の高台から海を見た。今回の旅行で撮ったものの中で、この写真がいちばん好きだ。きれいなものや美しいものが映っているわけではないのだけれど、緑の深さや風の強さを思い出せて嬉しい。

 伊丹空港で遅い昼食を摂って神戸に戻ると16時前だった。三宮駅で、この国には人混みというものがあったなと思いだしてすこし驚いた。

 

復刻 大奄美史

復刻 大奄美史

 
海辺の生と死 (中公文庫)

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