しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

『閃光のハサウェイ』第一印象

・童貞力の高さを感じる。

・ケネス大佐は良い人っぽいかんじで登場したが後半は悪どい戦術使ったり平気で拷問したりで、自分の中では「キレイなバスク大佐」と認識した。

・クェスがバギーを降りてシャアの元へ走るのをハサウェイの視点から追うという回想の演出が素晴らしかった。そうだよな、その視点があるよな、という。第二次ネオジオン紛争でハサウェイは極端に脇役だったというか、かれの主体性はあの時点で引っこ抜かれていたのだと思えた。

・全体を通じてガウマンが好き。アポリーとかケーラのポジションに近いが同じではない。

・「追尾するな、狙われる!」が全編通じて一番好きなセリフ。ガンダム世界ではこういう状況でイデオロギーに寄った発言をしがちだが、ここでガウマンは「おまえが追尾すると俺まで死ぬじゃねえか」だけしか考えてない。等身大の発言で、状況もキャラも全く違うがククルス・ドアンみがある。

・その後の「こんな新型、やっちまってくださぁい!」も好き。ここでおそらくガウマンは本気で自分を巻き添えにして討ってくれとは思っていない。むしろこれはレーンに向けたセリフだろう。こう言えば人質としての価値が無くなり、レーンはハサウェイから離れるはずだ、という期待がある。さらにはハサウェイに向けても、こいつをやれば俺までやられるんだからな、まさかやらねぇよな、という含みがある。敵の新型ガンダム+パイロットと自分を天秤に掛ければどちらが重いかちゃんと判断してくれよ、おまえの無茶な作戦で俺という仲間を捕虜にした良心の呵責ってやつを今一度感じろよ?というメッセージである。ハサウェイの甘さをちゃんとわかっている。

・本作を観て、あらためて自分はUCが好きでなかったなと思った。ニュータイプ解釈が単純であるし、「はいどうぞ、感動してください、感動するでしょう?」という味付け具合に辟易する。

・ハイジャック犯に反撃する直前、ギギの「やっちゃいなよ」という声より半拍早くクェスらしき声の「やっちゃいな」が響いてくる。ハサウェイは今なおクェスに取り憑かれているのか、あるいはアクシズ落としの際に地球を取り巻いた「あたたかさ」にクェスを介してつながっているのだろうか。そしてまた、ギギの「やっちゃいなよ」はクェスの「やっちゃいな」に誘発されたとみることはできるだろうか。ギギもハサウェイも意識していないけれども、二人ともクェスに導かれて(引っ張り回されて?)いるという解釈も可能ではないか。

・ハサウェイは現時点では「妙な人間関係」を自分の決断で断ち切れると思っている。それができないのが「自分の甘さ」だと自己規定している。過去の体験と現在の行動はすべて自分の責任と判断で制御し整形してゆくことができると考えており、そうした能力こそ自分が過去を精算して大人になるために必要だと思っている。だがその考え方こそがかれの未熟さであって、ケネス大佐であれば「ティーンエイジャーのころのドキドキしてた過去を断ち切る力を探してるうちに、現実のほうが先に変わってしまったよ」とかなんとか言うだろう。

・ハサウェイが断ち切りたい過去の関係とは、結局のところクェスに行きつく。かれはクェスが死なずにすんだルートを頭のなかでずっと探しているが見つからない。ついでに自分がチェーンを撃ち殺した過去も改変あるいは精算したいが、彼女が宇宙に明け渡したサイコフレームがあの暖かな光を誘発し、その残響はいまもハサウェイに残っている。それゆえにハサウェイはいまもクェスとなんらかのつながりを保ち、和解の可能性を留保させてもらっている。あの過去をなんとかしたい…という欲求をギギにつけこまれる。「ギギ・アンダルシアも」断ち切ってみせるさと力んではいるが、そう言うのはつまり断ち切れないと自分自身でわかっているからで、なおかつ断ち切れないことを自分に認めることもできない。だから「すっきりさせてよ」とギギに囁かれる。ギギを断ち切ることができないことを認めることができないのは、クェスとの過去を断ち切れないことを認めていないからであり、要するにギギを通じてクェスとの過去にハサウェイは引き込まれる。そこに向き合わず、ガンダムでがんばれば全部解決してゆくのではとクスィーを射出してしまうところに童貞力の高さを感じる。ここらへん、「忌まわしき記憶」をぜんぶアクシズに込めて地球に射出してしまえばララァへのバブみが取り戻せると考えていたシャアとどっこいどっこいなところがあるかもしれない。

・成人式が戦争でサスペンドしたままのハサウェイと違い、クェスは「どきなさい、ハサウェイ!」と言ったとき、大人になったのだとおもう。