しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

死と災害

雨が降っている。これからさらにどれだけ降るのか、降らないのか、大きな災害につながるのか、つながらないのか、わからない。何事にもならなければよいとおもう。

しかし一方で、明日から/来週から/今月にかけて、何らかの気象現象があり、そして何らかの災害が起きる、ということは、まず確実であるということもわたしは知っている。知っているのに「何事にもならなければよいとおもう」と書くのだから、これは単純に、欺瞞である。乗客を満載した列車がこれから崖下に落ちることを知っていながら「鉄道事故でひとが死なない世界が来ますように」と祈る人間がいたら、それは端的に嘘つきであるか、頭が完全にねじ切れた人間だということになるだろう。

そこで、さしあたりは祈りよりも確実な現実の方を優先しようとおもう。つまり、何らかの災害がこれから今年も生じ、そしてひとが死ぬということである。

 

いったいそれはどういうことなのか。なんなのか。どこから、どのように、どこへ向けてそのことを理解すればよいのだろうか。

 

そもそもなぜ災害でひとが死ぬのか。それは人間がそのようにできているからだ。息ができなければ死ぬ。石や瓦礫に押しつぶされれれば死ぬ。まずは身体がそうした形状や構造を備えているからで、これはいまさらどうしようもない。ところでそうした身体において死んでしまうのは、別に自然災害に限らない。自動車事故でも、病気でも、老衰でも結局死ぬ。だから、その点では、災害で死ぬことは普遍的/抽象的な意味での「死」の一例にすぎないと言えるのかもしれない。

 

けれども、そうした考え方は正しいだろうか。つまり自然災害は多種多数の死因のうちの一つにすぎないのか。そうであるとも言えるが、別の考え方もできるかもしれない。というのは、人間が脆くも死んでしまうことは、人間が自然のはたらきによってそのような構造を持っているからである。そして自然災害もまた、自然のはたらきである。つまり自然災害における死は、もとは同一の根拠である自然から生じたふたつのもの(災害と身体)が、あまりに不運にも再会してしまうという出来事ではないのか。

 

だとすれば、なぜそのようなことが生じるのか。なぜ、自然は、つまり災害と人間は、そのようにして成立しているのか。