しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

戦災と天災

 『月刊社会科教育』という小中学校の社会科の先生を対象とした雑誌が、2011年8月号で「”災害の歴史”と人類の叡智」という特集を組んでいる。東日本大震災の直後の時期であり、社会科教育で災害をどのように扱うかがテーマとされている。

 

 その中に、谷和樹氏(玉川大学教職大学院准教授)による授業シナリオ案と、竹澤伸一氏(千葉県市川市中学校教員)による谷氏の提案への批判、谷氏による再反論が掲載されている。ひとつの特集中に批判と反論の応答が掲載されているというスタイルが面白いとおもう。

 二人の討議の中心にあるのは、戦災と自然災害を同列で扱えるのか否かという問題である。これは決してゆるがせにできない問題であるとおもうので、自分が考えるためにも簡単にまとめておきたい。

 

 まず谷氏による授業シナリオ案について。小学生向けの授業で、単元を以下の4つで構成するという想定となっている。

1 日本は奇跡的な復興を何度も経験してきた

2 近代から現代までの復興のポイントはそれぞれ何か

3 東日本大震災からの復興をどう考えるか(わたしたちのアイデア

4 未来のインフラをささえるエネルギーをどうするか

 竹澤氏との議論の対象になったのは「1」である。そこで谷氏の記述をもう少し引用する。

未来のまちを考える授業。その導入は過去へと遡る場面から始まる。/長い日本の歴史の中、これまでに幾度も日本を襲った未曾有の危機。/そのすべてで日本は世界中が瞠目する復興を遂げてきた。扱うのは次の六つである。

(1)白村江の戦い(662年)

(2)元寇(1274年・1281年)

(3)黒船来航(1852年)

(4)関東大震災(1923年)

(5)東京大空襲(1945年)

(6)阪神・淡路大震災(1995年)

 このうち「二 東京大空襲」については「■空襲を受けたのは東京だけではありません。日本中が空襲にあったのです。戦争が終わってから復興していった街の様子です」として、1945年から55年の大阪、広島、仙台青葉通り、兵庫県姫路市大手前通りの写真を見せ、「■これらの資料のキーワードは一言で言って何ですか」と授業を進める、とする。その答えは延焼を防ぐための「幅の広い道」であり、「戦災地復興都市計画基本方針」の資料を提示する。戦災復興事業のなかで各地の都市構造が改良されたことを示す流れとなっている。さらに阪神・淡路大震災でソフト面の視点が「復興」に取り入れられたことを学習するシナリオになっているが、以後は省略する。

 

 さてこれに対して、竹澤氏は次のような批判を寄せる。

 戦災と天災を同列視できない

 谷氏の単元案は戦災からの復興と天災とを同列視している。関東大震災からの復興と東京大空襲からの復興が、「災害からの復興」という視点で同列に語られる。私はこの点に強い違和感を覚える。

 (…)東日本大震災は恐らく人知を超えた自然災害である。被災された方々にとってはまさしく晴天の霹靂、ふって沸いた理不尽な仕打ちである。それでも今後の天災に備えて何か知恵はないかと追究するのが単元づくりの根幹であろう。

 戦災は人知を超えた災難ではない。国家規模の愚策が招いた人災である。地震津波による被害の拡大には、時の政府による対応の遅れという人災の部分は確かにある。でも発端は明らかに天災である。戦争は防げるが天災の発生自体は防げない。そのどうしようもないものに対しても、なんとか生き残る術を社会科の単元で考えるのである。だから私の11時間の単元案には戦災は微塵も含まれない。

  竹澤氏の批判のポイントはわかりやすい。東日本大震災は自然現象を起点とした天災であり、人災の側面も含まれるが、起点としての地震そのものはどうしようもない。しかも(広さや深さなどで)人知を超えている。それでも災害を「生き残る術」や「今後の天災に備えて何か知恵はないか」と考えることが授業のねらいであるべきだ。他方で戦争は人間の知恵で防ぐことができる。したがって同列に扱うべきではない、と。

 

 これに対して、谷氏は次のような反論を立てる。

 戦災が人災であることなど当然である。それが防げるか防げないかも、今回の「復興と未来のインフラ」という視点とは直接関係ない。起こってしまった大規模な破壊からどのように復興し、新たなインフラを築いていくのかということが論点なのだ。「震災」でも「戦災」でも同じである。「同列視」するかどうかは別として、250の都市が焼け野原になった戦災からの復興経験を、良くも悪くも教訓としないなど考えられない。

 谷氏の反論も明確である。谷氏の立場では、授業のねらいは「起こってしまった大規模な破壊」から都市とインフラを復興してゆく道筋を学習者が考えることにある。震災による復興を考えるならば、「大規模な破壊」とその復興の先行例である戦災復興を参照するのは当然である、と。

 

 以上が討議のあらすじとなる。谷氏と竹澤氏の主張は、どちらが根本的に誤っているというものではない。谷氏は、空襲も震災も「大規模な破壊」であるとする。竹澤氏は、それが生じた原因を考えるならば同列視できないはずだとする。もう少し言うと、谷氏は「破壊」の発生を所与のものとして、そこからの復興の(どちらかといえば都市計画的な)プロセスに重点を置くのに対して、竹澤氏は破壊の原因をも視野に入れて東日本大震災という「人知を超えた」出来事そのものを捉えようとしている。視点をどこに定めるかによって、戦災と天災を同列視して良いか否かという立場はとうぜん変わってくる。

 このようにまとめた上でわたし自身の考えを書いておくと、わたしはどちらかというと竹澤氏の立場に近く、谷氏の意見に対しては批判的な立場を持つことになる。もちろん谷氏の視点も大切であるし、場合によってはそのように考えることも当然ある。ただ、復興を考えるとき、「焼け跡」を起点とするか、その原因まで含めて捉えるか、ということはとても微妙で難しい問題であるとおもう。少なくとも、焼け跡を起点とする(原因については問わない)のが基本だという立場はわたしは採らない。

 それはいろいろ理由があるけれど、根本的には、復興は被災地外との関係性のなかで進むものであるからだ。その「被災地外」は、「空襲=起こってしまったもの、(なぜか)襲ってきたもの、日本が(不運にも)遭ったもの」というネイションの支配言説の内側だけではない。そうした言説を共有しない外部からも助けを求めざるをえない。そのとき、既成の言説をいったんカッコに入れて、なぜそうした災厄が起きたのかというところから深く考えなければ孤立してしまう。

 たとえば「復興」の在り方について外国のひとと話し合う場にいたと仮定してみる。そうした場で、たとえば四川大地震の被災者と東日本大震災の被災者が、お互いの経験や苦楽について共感しながら語り合うということは起こりうる。だが、日本人の側が「わたしたちは東京大空襲からも復興し、それを元に今度の震災からも復興します。あなた方も過去に重慶爆撃からの復興を経験しましたし、四川大地震でも苦労なさいましたよね。お互いにがんばりましょう」と言って話が和気あいあいと進むかといえば、おそらくそうではないだろう。日本人がオーストラリア人に「ダーウィン空襲では大変だったでしょうね、わたしたちもいろいろな震災や空襲の経験があります」と言って、うまく話が進むかどうか。

 これらは戯画化した例にすぎないが、〈戦災と天災の復興は、いずれも「起こってしまった大規模な破壊」からの再建である〉とみなすこと自体がかなりナショナルな言説のひとつであり、その言説の外側では通用しないこともありうるということは確認しておく必要がある。過去の都市復興計画について分析するひとが、それらを同列視することに政治的な含みをもたせていなかったとしても。

 「復興」について考えることは、こうしたナショナルな言説に対する距離のとり方を考えることなのかもしれない。別の言い方をすれば、「未曾有の危機」に際して、戦災を自然災害に似た「被害」の立場で捉える既存の言説に依拠してこれを再強化することで危機を乗り切ろうとする立場を谷氏は採り、そうした言説を部分的にでも解体してゆくことが復興には不可欠ではないかという立場を採るのが竹澤氏であるかもしれない。前者の強みは社会的な活力を物語から簡単に取り出してくることができることである。弱みは内向きになることである。後者の強みは事象をより徹底的に、批判的に熟考できることである。弱みは時間と体力が要ることである。

 いずれも長短があり、スタンスの違いといってしまえばそれまでかもしれないけれど、谷氏の立場では戦災復興と経済発展の延長線上に原発事故が生じたということを「過去を遡る」ことで考えざるをえないところが弱点ではないかとも思う。「復興」はやはり都市計画だけでは済まない。

 

 以下は自戒として。日本の研究環境では、歴史学社会学や国政政治学を研究するひとと違って、「防災」「復興」関係の研究者は政治性を持たないのだ、という雰囲気がぼんやり共有されているような気がする。しかし政治的に完全中立・純粋な、無色透明の学問や研究といったものは無い。つねに、ある立場での言説であるということ。それは気をつけておこうとおもう。