しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

チェーン・アギ論

 久しぶりに逆襲のシャアを観ている。

 ところでわたしはトミノ宇宙世紀の各作品のテーマについて、1stは「戦争と生存」、Zは「女と男」、逆襲のシャアは「死と命」として規定できるのではないかと考えている。

 この各テーマは後のものが前のものを包摂している。つまり逆襲のシャアという作品は、それ以前の「戦争と生存」「女と男」というテーマを含んだうえで、それらをさらに超える物語として「死と命」ないしは世代の問題に取り組んでいると考える。

 

 さて逆襲のシャアを観るうえで従来着目されてきたのはシャアとアムロ、クェスとハサウェイといった物語の中心軸を構成するキャラクターである。それは間違っていないけれども、ふと、チェーン・アギという脇役に注目すると、この作品をまた別の角度から解釈できるのではと感じた。

 

 チェーンに着目するのは彼女がトミノ宇宙世紀作品群の中で珍しい類型のキャラクターであるように思うからだ。

 トミノ宇宙世紀作品群の女性キャラクターは基本的に「主体性」と「運命」という2つの理念によって規定されている。『Z』のレコアさんとエマ中尉を例に出すのがわかりやすい。レコアさんはエゥーゴに所属していたが、シロッコに誘引されてティターンズに転ずる。エマ中尉はバスク・オムの非道に反感を持ち、ティターンズからエゥーゴに転ずる。二人は作品のなかでちょうど鏡合わせのようなキャラクターであることが観客にわかりやすく示されているが、二人とも自らの主体的な判断で、生命を賭して自分の行き先を選び取っている。ところが主体性を発揮すれば幸福になる/ハッピーエンドが訪れるという期待が裏切られることに、作品の基本的な悲劇性がある。レコアさんもエマ中尉も、自分が自分の主体であるための道筋を探しつつ、グリプス紛争の末期に命を落としてしまう。個人の努力や才能から全く離れた次元で、その生命が踏み潰されてしまう。この次元を運命と呼ぶ。主体性では乗り越えられない運命に支配されながら、それでも自らの主体であろうとするところに、彼女たちの生命の輝きがある。エマ中尉はそれを知っていたからこそ「命を吸って」とカミーユに言ったのであり、ヘンケン艦長の挺身も彼女の主体と運命の一瞬を守ることに捧げられたと解するべきだろう。

 レコアさんとエマ中尉は「主体性」と「運命」がわかりやすく示される例である。他の女性キャラクター達も、レコア/エマと同様ではないものの、この2つの理念にそれぞれの仕方で規定されている。というか、主体性と運命をどのように描くか、というところに各女性キャラクターの個性が現れる。

 ライラはさほど自らの運命を乗り越えるといったことに関心は無いが、代わりに自由である。サラは自分自身で運命と主体性を支配していると半ば信じつつ、結局はシロッコに搾取されていた。マウアーとファは運命に対して独特のしなやかなさを持っているが、自分が勝ち取るべきものは決して見失わなかった。フォウとロザミアは主体性を剥奪され、ただ運命に踏み潰されるのを待つだけのようでいて、最期のわずかな瞬間にカミーユとの関係性のなかで主体性を掴み取る(そうした関係性の可能性を全く拒絶するがゆえに、カミーユはシロッコを「おまえだけは」と断罪したのだろう)。『1st』ではキシリア様やミハルがわかりやすいだろうか。

 このようにトミノ宇宙世紀作品群の女性キャラクター達は主体性と運命に対する立ち位置によって個性立てられており、トミノ=サンはこの色付けがきわめて上手い。だから彼女達には作品内で独特の「色気」がある。これに対してアイナ様やニナは主体性と運命という基本的な規定をトミノ作品群から流用しているにも関わらず、それに対する個性付けがほとんど為されていないので、上記の女性キャラ達のような艶が無く、登場作品もベクデル・テストにほぼ通らない。これらの作品では、主体性と運命はシローとノリス、ウラキとガトーという男性同士の関係の中に完結してしまう。

 やや脱線するが、この観点で解釈するとハマーン様のキャラクターはかなり平板であることに気づく。カタログスペック的な個性が濃すぎて(あとキュベレイがかっこよすぎて)、主体性や運命への距離感を見せる暇が無いのだ。

 

 前置きが長くなった。主体性と運命という理念で規定される多くの女性キャラクターのなかで、チェーン・アギだけは、この理念にどこか当てはまらないように思うのだ。だからといってアムロに完全に従属しているのでもない。なるほどチェーンが主体的に判断・行動しているシーンは多いし、最後はクェスとハサウェイの悲劇的なやりとりのなかで自身の運命を受け取る。だが、彼女の立ち位置はこの2つの理念のみで解釈することがどこか難しい。レズン、ケーラ、クェス、ナナイといった他の女性キャラクターがおおむね上記の枠組みに収まるのに対して、チェーンは彼女の運命や主体を超えた役割を与えられているように思う。それはララァがついにアムロとシャアのあいだで得ることができなかった役割でもあるように思う。

 長くなったので稿を改めます。