しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

90年代カンボジアPTSD調査の失敗(新福尚隆「阪神大震災 私の体験と心のケア」)

被災者の心の問題の調査という点では私がWHO在籍中に経験したカンボジアにおけるPTSDの調査団のことが頭に浮かぶ。1991年以降、カンボジアにおいて外国からの支援が始まるようになったとき、急速に増大した申込みの一つはカンボジアにおけるPTSDの調査、研究であった。私の目から見ても、欧米からのグループの中には非常に研究色の強いチームの派遣が少なからずあった。そうしたチームはカンボジアに入って、現地の医療陣とさまざまなトラブルを起こす結果となった。結局、カンボジア政府はPTSDの調査のためにカンボジアを訪問する研究班の入国を拒否するようになる。カンボジア政府にとって、外国の研究者がカンボジア内戦を経験したカンボジア人の心理的な外傷に対して調査を行うということには耐え難いものがあったのである。

(新福尚隆「阪神大震災 私の体験と心のケア」)

 

 これはなかなか恐ろしい話で、一国の政府が外国の医療研究班を研究テーマによって一律に入国拒否するという例は珍しいのではなかろうか。それだけむちゃくちゃなことを派遣チームがやらかしていたということなのだろう。文中では「現地の医療陣とさまざまなトラブルを」とあるが、単に外国/現地の医療チーム間の軋轢といったことだけでこうした処置に至るとは思えない。これは全くの推測だけれど、現地医療者が本当に怒ることがあるとすれば、現地カンボジア人に外国の医療チームが直接関わる仕方がひどすぎたということなのだろう。調査行動が「研究」のみに完結していて、ひとりずつのカンボジア人への振る舞いがあまりに侵襲的であり、見かねた現地医療者が身を張って同胞を守ろうとした、というような出来事があったのではなかろうか。推測にすぎないけれど。

 このようなことはPTSD(に限らないが)という研究課題や概念が先行するときに起こりやすいように思われる。PTSDであれ何であれ、どのような症状や力動が観察されるにせよ、結局存在するのは身体と精神と感受性と歴史をもったひとりずつのひとである。そのひとの在り方や苦痛を理解する際に、もちろんPTSDという概念は役立ちうる。しかしひとより先に概念や研究課題が置かれると、なぜかひとそのもののことは見えなくなり、データ採取の素材としての「対象」としか認識されなくなる。

 外国人/異文化人が調査を行うとき、最後までわからないのは歴史と地理である。カンボジアであれば、ラオスベトナム、タイに囲まれ、さらにアメリカ、ソ連、中国のかかわりも大きいにちがいない。ひとびとの症状や言動には、そのひとの数十年分の個人史に加えて、100年単位の家族史、そして1000年単位の地域史・国家史が書き込まれている。外国からの医療者や研究者がさしあたり把握できるのは、個人史と家族史の一部だろう。しかし症状や言動の微妙なニュアンスや襞の部分は、地理的・郷土史的・地域史的な背景まで体得していなければ看過してしまう。つまるところ、とくに心的外傷に関わるような医療や調査研究は、現地のひとがみずから行うのがベストだということかもしれない。外国からのチームはその後方支援や助言にあたるのが本来の筋なのかもしれない。