しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

chatGPTと大学レポート

学生がchatGPTをレポート作成に使うことに、どう対応すべきか。

根本的には「内容が変だったら普通に減点する」「教員の側から質問をする」というのが答えになるのではと考えている。

 

前提の整理

まず、関係する前提を整理しておく。

すでに多くのひとが指摘しているように、現行のchatGPTには得手不得手がある。社会的に共有されている「一般論」を整理して提示することや、利用者が与えたデータを修正することは得意である。また、全く異質と思われる要素を組み合わせてそれなりに整合性のあるものを創り上げることも得意なようである(「浦島太郎とかぐや姫が大活躍する『桃太郎』のストーリーを作ってください」のような)。

一般論から一段深まった論を提示することは不得意なようである。とりわけ固有名詞、現実に存在する理論、歴史的出来事を正確に論じることができない。たとえば「ヘーゲルはマルクスにどのような影響を与えたか」と聞くと、「ヘーゲルはマルクスの『資本論』をよく読んでその概念を理解していました」と返ってくる。また、人間は自分が確信している知識、社会や学界でコンセンサスが得られている知識、そこまで自信が無い知識、不確定な知識を区別して書き分けることができるが(というか、それを書き分けることが学部生のトレーニングとして大切なのだが)、現状のchatGPTは確信の度合いを書き分けない。

学生が期末レポートにchatGPTを使うとき、こうした得手不得手を理解したうえで活用しているのか、レポートの問いをchatGPTに入力してその回答をそのままペーストしているのか、という点は区別する必要があるだろう。

 

第2に、ここまで「現状の」と何度も書いていることからわかるように、いまのchatGPTの得手不得手は2023年1月現在のものでしかない。OpenAIあるいは他プロジェクトの類似AIは近い将来にどんどん改善されてゆくだろう。だから現状のchatGPIの能力をベースに対応や基準を設定しても、翌学期にはそれがもはや当てはまらないという事態が十分かんがえられる。したがって教員や学部や大学がchatGPT利用に対する基準を設定する際、現状の能力に依存したものではなく、AIの本質(というものが存在するのかは別問題だが)を掴んだうえで設定する必要があるだろう。

 

第3に、学部・学界によってchatGPTの活用方法(悪用方法?)は大きく異ると思われるので、大学単位や文科省単位で一律に基準を設けることはほぼ不可能だろう。理工学分野と人文学分野では感覚が異なるだろう。自分が関わる分野で言うと、防災や復興に関しては世の中にかなり「一般論」のデータが蓄積されている。こちらとしてはそうした一般論から一歩足を踏み出したことを考えてほしいと思って授業をするので、chatGPTで一般論だけをまとめたレポートを量産されると困る。しかし活用法によってはうまく「ハマる」分野もあるだろうと想像する。

 

一律禁止は可能か、有益か

前提の整理だけで長くなってしまった。本論としてまず考えるべきは一律禁止にするか、部分的活用を認めるか、むしろ積極的に使用を推奨するか、という点であると考える。

一律禁止にするという選択肢は現実には困難である。その場合、chatGPTを使用したレポートは不合格とするという採点基準を設けることになるが、採点者がエビデンスを示してchatGPT使用を摘発することは難しい。AI能力の向上によって、この困難はさらに確実になるだろう。

類似の問題として、学生がchatGPTを叩いて得た回答を使うのがダメだとしても、chatGPTの出力を用いたウェブサイトを学生が閲覧し、それを引用したり参考にした場合はどうなるのか、ということがある。

chatGPTの利用をレポートの文面のみから一撃で確証する方法は無い。それを確証しようとするためにはAIに頼らねばならないが、AIを超えるAI、知能を超える知能は存在しない。chatGPT利用を確証する高性能AIは登場するだろうが、その高性能AIでレポートを書くことができてしまう。

安易な利用については、教員はかなりの確度でそれを見抜くことができるだろう。しかし採点に反映し、成績を付け、単位を認めないとするためには「見抜く」だけでは足りない。

 

すると部分的活用を認める、もしくは積極的活用を推奨する、という方向にならざるをえない。「使ったらダメと言うことはできない以上、うまく使ってね」ということである。ただその場合も、「うまい使い方」「うまくない使い方」の基準やガイドラインを考案し、それを授業内で指導もしくは提示する必要がある。たとえばレポートの粗筋をまずchatGPTに書かせてみたり、草稿を清書させるといった使い方はOK、あるいは推奨するというやり方である。

現実として、chatGPTやそれに類するAIサービスは今後社会の知的技術の一部になる。その活用能力を身につけることは学生の生きる力に直結する。だとしたら、chatGPTの得手不得手を理解する手段としてレポートで活用してもらうくらいの方が良い。この立場に立つなら一律禁止はむしろ有害である。

 

しかしこの場合も、上記の「一律禁止」の場合と同様に、「うまい使い方」と「うまくない使い方」を一撃で確証することができないという問題はやはり残る。

 

長い。結局おまえはどうするんや。

chatGPTの出力をレポートに用いる(参考にしたり、文章を流し込んだりする)とき、その内容が正しいかどうかを学生が判断して取捨選択・加減修正しているかどうか、がキーであろうとおもう。個人的にはそのように積極的に使ってほしいと言うぐらいでも良いと思っている。「知識を収集し、自分で考え、筋を練り上げて、議論のルールに従って表現する」という工程のなかにAIが入ることは良いことだろう。

chatGPTは言わば「嘘をついたと認めたら死ぬ病気にかかっている、アホみたいに物知りのオッサン」である(別にオッサンにする必要はないが、なんかそういうオッサンが駅の窓口や喫煙所にいて何でも答えてくれる風景を想像すると和んだのでそういうことにする)。GPTオッサンと雑談して来るのは良いが、レポートを書くのは学生自身の責任である。あなたはこれを正しいと思って書いているのだよね、ということでしかない。「chatGPTがそう答えので正しいと思いました」は許さないということである。

だからchatGPT利用の痕跡があろうが無かろうが、単純に、内容がおかしかったら減点するということで良いのではないかとおもう。

ただ問題は、表面上は正しいようだが、本当にこのひとは自分でこれを考えて、正しいと思っているのだろうか…?というグレーゾーン的レポートである。おそらくこういったものは一定度発生するだろう。この場合、レポートの内容について、出題者が追加でメールなり対面なりで提出者に問うということになるだろう。その場合、「ここ、chatGPT使ったんじゃないの?使ってたならアウトね」と聞くのではなく、「あなた自身はこの部分をどのように理解しているのか」と聞くということになるだろう。その回答にAIを使うのもアリだ。

 

追記。当人に聞いてみた。

いまいちな答えだった。もっと攻めて来てほしい。

「こ!」と「う!」

こどもの発音の変化が激しい。頻繁に現れる発音が、長くて1ヶ月、短くて2週間くらいで入れ替わる。1ヶ月前のエントリーで、こどもが興味深いものに出会ったとき「こぉヮ」と上顎を鳴らすような発音をすることを書いた。

 

また、昨年秋に、母親がいないとき「えーうー」としばしば発音することを書いていた。


しかし10ヶ月半の現在、「こぉヮ」も「えーうー」もきわめて減った。消滅はしていない。しかし他に勃興した多くの発音に機会を譲っている。最近はより日本語ネイティブに発音が近くなり、声量自体が大きくなり、息が続いて長くなった。また単調な「んまnんまnんまnんま…!」だけでなく、一つの発声のなかに音の高低を突然入り交じらせることがある。わたしは言語学がわからないのでどう表記したものか困るのだが、「は↗う↘ほ↗わ↘」といった具合である。こどもなりに大人のことばを聞いて模倣しているのだろう。驚く。

 

このように発音の変化・発達が目まぐるしい……いや、耳まぐるしい(?)のだけれど、この1週間はさらに、「意味」の萌芽が現れているようだ。それは「こ!」と「う!」である。

「こ!」は、積み木やおもちゃ(おそらくこどもが気に入っているもの)を手に持ってそれを自分で見ているとき発する声である。この「こ!」を大人のことばの意味に強引に翻訳すると「これ」となるようにおもう。ただ、大人が「これ」と言うときは、手元にあるものを話し相手に指し示すというはたらきが主である。こどもの「こ!」の場合はそれと違って、相手に示すという意味合いがほぼ無い。むしろ自分に閉じている。自分がいま手に持っているものを、その個物そのものとして確認しているときに発しているようである。この点で、先述の「こぉヮ」にも近い。ただ、「こぉヮ」には確認というより、手に持っているものをしみじみと興味深く味わうような趣があった。いまの「こ!」は、この「こぉヮ」の意味合いをある程度は含みつつ、一種の掛け声でもあるらしい。手で持っているものを玩味し没入することを「こ!」によって敢えて防いでいるようでもある。「こぉヮ」の時期は口唇で舐め回すことが多かったが、「こ!」は手と目での確認が主である。

「う!」は、持っているものを親に差し出すときに発する声である。この2週間ほど、こどもは「ちょうだい、どうぞ、ありがとう」の遊びができるようになった。手に持っているものを親に差し出し、親がそれを受け取り、またこどもの手に返す。このとき「う!」と言う。ただ、持っているものを渡すために突き出すときも「う!」、親の手にあるものを返してもらおうと手を突き出すときも「う!」、さらに持っているものをこちらの手に突き出すけれど手放さず自分で握り戻すときも「う!」である。だから「う!」は「どうぞ」であり「ちょうだい」であり「これは渡せないけどとりあえず触ってみて」でもある。あるいはまた、「これすごいでしょう」の意味でもあるかもしれない。

これら「こ!」と「う!」はほぼ同時に生じている。「う!」は、こどもと他者(親)との関係のなかで発せられる。身体の動作、視線のむすびあい、相手の動作を誘い出す精神の発出が、かれとわたしたちのあいだにあらかじめ染み込んでいた癒合的な場を改めて浮き上がらせ、その総仕上げのようにして「う!」が発せられる。手渡されるモノはその癒合的な場に編み込まれている。

これに対して、「こ!」は、こどもとモノとの関係のなかで、その関係内部にこどもとモノを閉じ込めるようにして発せられる。それを声として発して周囲に聞かれているという意味では関係的ではあるが。だから「こ!」と言っているとき、そのモノを無理に取り上げようとすると大いに抵抗する。取り上げたくないのだけれど、危険なものや親にとって大事なものはかれの手からもぎ取らざるをえない。そういうモノほど、かれにとっては「こ!」であり「こぉヮ…」であるので、かれの立場からすれば理不尽きわまりないのだが。

 

さしあたり以上のように整理してみている。ところでこの「こ!」「う!」が成立する前段階として、手指の握力の発達と、握りしめたものを「手放す」という動作の習得があった。このこともいずれ書きたいとおもう。

査読と編集についてのあれこれ(Twitter観測)

 

 

積み木を積む(主に大人が)

こどもに積み木を持ってきてくれるようサンタさんに依頼した。積み木を選んでよかったなとおもっている。ボーネルンドの製品で、サンタさん曰くすこし値が張ったがまあいいでしょう、と。

こども(9月半)はまだ積み木を積み木として遊びはしない。まずお気に入りの積み木を掴んで何度も舐めた(以下、集合体としての積み木も、その中の各パーツとしての積み木も全て「積み木」と書くが、区別する語彙が見当たらないのでご容赦願いたい)。念入りに、よだれを染み込ませるかのように舐める。「かまぼこ板」とわたしたちが呼ぶ積み木、緑色の円柱の積み木(かれは緑色が好きだ)、小さな半円型の積み木をよく掴み、舐めている。

ごくたまに、持っている積み木を別の積み木のうえに載せることがある。ただしたくさん積んで構造体を作るということはしない。お気に入りの積み木を片手に握って匍匐前進で移動する。今日は円柱形の積み木を手元から離すと床に転がったので、何度かそれを試していた。

 

そのうち積み木っぽい遊び方をし始めるのだろうと思って気長に見ている。代わりにわたし自身がたまに積み木を積んだり並べたりするようになった。これがなかなか面白い。レゴやプラモデルよりはるかに抽象度が高いので、積み木をどう積んでもぼんやりした何かにしかならない。だがそれだけにじんわりとこちらに響き返してくる。

中央のアーチ積み木をうまく使いたかった。しかし「うまく使おう」とするとうまくいかない。

箱庭療法に似ているのかもしれない。本物の箱庭療法に取り組んだことがないので全くの想像だけれど、体験としては近似していると言ってよいだろうとおもう。積み木を配置しながら、どことなく心地よいデザインに収まったり、全体の布置が妙にしっくり来ないと感じる。こどもが遊ぶためのマットを床に敷いているのだが、そのマットの一区画が自然と積み木を置くエリアとなる。初めは、エリアの中央に長めの積み木を縦にいくつか置いてニューヨークのWTCや東京都庁のような、シンボルとなる構造をつくり、その周囲に中くらいや低い積み木を並べていた。ところがこのタイプの配置はパターンがすぐに固まってしまい、なんとなく物足りなく感じてくる。そこで、ある程度高めの建物は作るが中央より少し離れた位置に置き、中低層の積み木を中央に広く並べてみる。さらにその周囲に、アクセントになるように高い積み木をぽんと置いてみる。あるいは、すべてを平地のうえに置くのに飽きて、手近な絵本で基礎的な高低差をつくってから積み木を置いてみる。真ん中をわざと空白地帯にして、ストーンヘンジのように中高層の建物が取り囲むこともある。

このあと左にいる怪獣に全て破壊されました

積み木を置くときはおおむね「都市」「ビル」を作っているというイメージを持つ。あまり「ビル」を集中させすぎると日照権の問題とか、人流が集中しすぎて生きづらいかなとか想像するようになる。この一帯が先に開発されて、次にこちらに新しいビルができて…というように歴史的な層を想像したりもする。しかし完全にCities Skylineのように「都市」「ビル」としてイメージしきっているわけではなく、いつのまにか鉱物の結晶体やパレットに寄り固まった絵の具の群れのようにも見えてくる。直方体や立方体や円柱といった単純な形状だからなのだろう。

ふんわりと都市や建物をイメージしているが、想像力が意外と亢進しない。これは年齢のせいもあるかもしれないが、ビルの名前とか誰が住んでいて、というようなごっこ遊びや物語の想像にまで入り込まない。なんとなく、ふんわりとしている。それが不思議と心地よい。一端には具体的なもの、言語で表出可能なものがあり、もう一端にはよりプリミティブな欲求やエネルギーや休養を求める心理があり、その中間あたりで都市なのか何なのかわからない積み木の布置が展開し、崩される。箱庭療法に近しいかもしれないと勝手に想像するのは、この「中間地帯」のふんわりさ加減がもつ力を感じてのことである。

積み木のみではちょっとさびしいときもあるので、こどもの他の木のおもちゃも置いてみたりする(下の「スピニングトップ」)。これがなかなかアクセントになる。もうすこし具体的なものへの方向づけがあっても良いのかなと思い、さきほど動物のフィギュアを買ってみた(カバにしたのは、動物園でこどもが興味を示していたと聞いたから)。

 

上顎を鳴らす

9月半になったこどもは、かなり早い時期から、面白いもの・興味深いもの・好奇心を刺激するものを目にしたり手に取ると(かれの場合、この2つはほとんど同じであり、さらに「唇と舌でしゃぶってみる」がたいてい付け加わる)、独特の声を出す。それは上顎と鼻の気道のあいだの空洞を鳴らすような発音で、唇をやや尖らせて「こぉヮ、こぉヮ」と音を出す。この表記は実際の発音をほとんど反映していないのだが、無理に書くならこう書くしかない。それはつまり、この発音が日本語には無いということである。

これ以外のとき、こどもは「えーうー」「んマんマんマ」など、おおむね日本語ネイティブの発音に近い声を発している。なお上記の「こぉヮ」が混じった「ぐヮぐヮぐヮ」という発音もある。これらはおそらくわたしたち両親の日本語発音に次第に次第に近づき、それを習得する過程で日本語には無い発音は失われてしまうのだろう。言語学の知見では、母語の発音や文法の習得はただ一度きりのようである。たとえば英語のLとRの使い分けは、仮にいまから英語ネイティブのもとでのみ生活すれば習得するかもしれないが、現実にはそれを母語として習得する機会はそろそろ永遠に失われる。代わりにかれは日本語の発音を体得する。

すると「こぉヮ」は、こどもが日本語発音ネイティブになりかけている今だけ聞けるもので、日本語の発音を習得すると消えてゆくのだろう。

 

というブログ記事を書こうと思っていたのだが、きょう職場で本を読んでいて、そのなかに掲載されていた「東日本大震災で破壊された田老町の防潮堤」という写真を見た瞬間、その凄惨さに息を飲みつつ「kぉヮ」と上顎と鼻の気道のあいだを軽く鳴らす自分がいた。

この「kぉヮ」は全く何気なく出たのだけれど、こどもの「こぉヮ」とほぼ同じだった。うろたえた。こどもと同じ発音をしているじゃないか。こんな発音がじぶんの身体に入っていたのか、と。こどもの発音が移ったのだろうか。それとも実はわたしもこの発音を日常的に行っていて、こどもがそれを真似したのだろうか。あるいはなんらかの遺伝であるか。あるいは日本語ネイティブに実は広く聞かれる発音なのだろうか。

じぶんでも気づいていない、意識では忘れてしまっている発音がかすかに身体に残っていて、いろいろな場面でそれを実は細やかに使い分けているのかもしれない。あるいは、こどもの発音を聞いているうちに、身体の奥に沈んでいた発音がおもてに引き戻されたのかもしれない。ふしぎとしか言いようがない。kおヮ。

列車とお客様との接触

新快速に乗っていたら西明石駅で「列車とお客様が接触」したので大阪止まりになると車内放送があった。

「接触」とは不思議な表現で、字義どおりに受け取るなら駅の乗客と列車がふっと触れ合うくらいで何の傷も受けていないようにも聞こえる。

しかし実際にはこの「接触」はより広い含意があり、凄惨な状況も、飛び込みの自死もそこに含まれる。ということを聞いている誰もがわかっている。接触という、軽く、非意図的に発生するような語感のことばが、きびしい人身事故や意図的な行動にも使われる。

こうした広義化は普通批判されるものだけれど、この「接触」についてはそうではない。鉄道会社と乗客に暗黙の合意がある。実際に軽い接触かもしれないし、そうでないかもしれないが、そこは触れずに「接触」でまとめておく。

それはわたしたちの日常が軌道をいっしゅんはみ出しかけるが、深く気にせずに再び戻るという体験である。だれもが「接触」の当事者になりうるが、そこに深入りせずふわっとまとめておく。そうしてダイヤが回復し、日常生活が運行されてゆく。

 

手を置く

こどもが寝ているとき、息をしてるかなとおもって背中あたりに手を置いてみる。こどもはいつもうつ伏せに寝るので、手を置くための「定位置」は背中になる。すると数秒、呼吸をしている様子がわからない。とおもうとすぐ、呼吸のちいさくて深い響きがかれの身体の奥からつたわってくる。じぶんの手のひらがこどもの背中にやわらかく「貼り付いた」ような感覚が生まれている。そのまま手を置いていると、かなり派手に上半身をすうすうと律動させながら寝ていることにきづく。体温もわかる。

こんなにも動いているのに、はじめに手を置いた数秒間はその動きが捉えられていなかったのだ、ときづく。ふしぎとしか言いようがない。じぶんの右手がこどもの呼吸を捉えるモードになっていなかったのが、こどもの背中に触れていると、そのモードへ引き寄せられ、みちびかれて変わるようだ。それはこちらの手のひらがアクティブに切り替わるというより、こどもの背中がわたしの手を切り替えてくるような感覚でもある。

こどもは、どう感じているのだろうか。寝たままで気づかないだろうか。