こどもに積み木を持ってきてくれるようサンタさんに依頼した。積み木を選んでよかったなとおもっている。ボーネルンドの製品で、サンタさん曰くすこし値が張ったがまあいいでしょう、と。
こども(9月半)はまだ積み木を積み木として遊びはしない。まずお気に入りの積み木を掴んで何度も舐めた(以下、集合体としての積み木も、その中の各パーツとしての積み木も全て「積み木」と書くが、区別する語彙が見当たらないのでご容赦願いたい)。念入りに、よだれを染み込ませるかのように舐める。「かまぼこ板」とわたしたちが呼ぶ積み木、緑色の円柱の積み木(かれは緑色が好きだ)、小さな半円型の積み木をよく掴み、舐めている。
ごくたまに、持っている積み木を別の積み木のうえに載せることがある。ただしたくさん積んで構造体を作るということはしない。お気に入りの積み木を片手に握って匍匐前進で移動する。今日は円柱形の積み木を手元から離すと床に転がったので、何度かそれを試していた。
そのうち積み木っぽい遊び方をし始めるのだろうと思って気長に見ている。代わりにわたし自身がたまに積み木を積んだり並べたりするようになった。これがなかなか面白い。レゴやプラモデルよりはるかに抽象度が高いので、積み木をどう積んでもぼんやりした何かにしかならない。だがそれだけにじんわりとこちらに響き返してくる。
箱庭療法に似ているのかもしれない。本物の箱庭療法に取り組んだことがないので全くの想像だけれど、体験としては近似していると言ってよいだろうとおもう。積み木を配置しながら、どことなく心地よいデザインに収まったり、全体の布置が妙にしっくり来ないと感じる。こどもが遊ぶためのマットを床に敷いているのだが、そのマットの一区画が自然と積み木を置くエリアとなる。初めは、エリアの中央に長めの積み木を縦にいくつか置いてニューヨークのWTCや東京都庁のような、シンボルとなる構造をつくり、その周囲に中くらいや低い積み木を並べていた。ところがこのタイプの配置はパターンがすぐに固まってしまい、なんとなく物足りなく感じてくる。そこで、ある程度高めの建物は作るが中央より少し離れた位置に置き、中低層の積み木を中央に広く並べてみる。さらにその周囲に、アクセントになるように高い積み木をぽんと置いてみる。あるいは、すべてを平地のうえに置くのに飽きて、手近な絵本で基礎的な高低差をつくってから積み木を置いてみる。真ん中をわざと空白地帯にして、ストーンヘンジのように中高層の建物が取り囲むこともある。
積み木を置くときはおおむね「都市」「ビル」を作っているというイメージを持つ。あまり「ビル」を集中させすぎると日照権の問題とか、人流が集中しすぎて生きづらいかなとか想像するようになる。この一帯が先に開発されて、次にこちらに新しいビルができて…というように歴史的な層を想像したりもする。しかし完全にCities Skylineのように「都市」「ビル」としてイメージしきっているわけではなく、いつのまにか鉱物の結晶体やパレットに寄り固まった絵の具の群れのようにも見えてくる。直方体や立方体や円柱といった単純な形状だからなのだろう。
ふんわりと都市や建物をイメージしているが、想像力が意外と亢進しない。これは年齢のせいもあるかもしれないが、ビルの名前とか誰が住んでいて、というようなごっこ遊びや物語の想像にまで入り込まない。なんとなく、ふんわりとしている。それが不思議と心地よい。一端には具体的なもの、言語で表出可能なものがあり、もう一端にはよりプリミティブな欲求やエネルギーや休養を求める心理があり、その中間あたりで都市なのか何なのかわからない積み木の布置が展開し、崩される。箱庭療法に近しいかもしれないと勝手に想像するのは、この「中間地帯」のふんわりさ加減がもつ力を感じてのことである。
積み木のみではちょっとさびしいときもあるので、こどもの他の木のおもちゃも置いてみたりする(下の「スピニングトップ」)。これがなかなかアクセントになる。もうすこし具体的なものへの方向づけがあっても良いのかなと思い、さきほど動物のフィギュアを買ってみた(カバにしたのは、動物園でこどもが興味を示していたと聞いたから)。