しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

芦名定道先生のこと

大谷大学の学部生だったころ、芦名定道先生の「キリスト教学」の講義を1年間受けた。芦名先生自身は京大のキリスト教学講座の教員で、大谷大学には非常勤講師として来られていた。(京大に入学したわけでもないのに芦名先生の授業を聞けたのは単純に幸運としか言いようがない)

 

講義は重厚で強烈で、先生の知識そのものが一つの整然とした計画都市のようで、その中のひとつずつの建物が綿密に作り込まれているようなものだった。その都市の入り口に入って、全体地図の一部を見せてもらうのに一年間がかかった。

講義はずっと独特の早口で、「中国のキリスト教は抜群に歴史が古いんですね」と言われたときの口調を思い出す。話すことが多すぎて、通常の2.5倍速ぐらいのスピードでずーっと話し続けるのだ。

そのときの講義でおそわったことは、キリスト教の世界観や基本思想が近代科学の原型となった、ということだったとおもう。このように一行でまとめるとそれだけの話のようだが、2.5倍速で90分間の講義を1年間かけて、膨大な背景知識を編み合わせながらこの筋をたどっていった。碩学という言葉がごく単純にそのまま当てはまるひとであるとおもった。

1年間きちんと講義を受けて、前期と後期に試験(レポートだったっけ?)を受けて、単位をきちんといただいた。そのときのノートやプリントはいまも残している。この経験はわたしの代えがたい財産である。

 

今回、名誉ある6名の学者として政権から認定を受けたという報道の中に芦名先生のお名前を久しぶりに拝見して、ただ1年間講義を受けただけの自分だけれど、たまたま思い出すことを書くことにした。

幻に終わった日本最初のアスファルト舗装

 一方、日本で初めてアスファルト舗装が実施された場所はどこでしょうか。それは、明治11年(1878年)に、神田昌平橋で行われた橋面舗装です。実は、この前年に東京上野公園で開幕した第一回内国勧業博覧会の会場で、日本発のアスファルト舗装を試みられていました。ときの東京府知事、由利公正は、岩倉具視を特命全権大使とした使節団の随員として、欧米のアスファルト舗装道路の実状を見聞し、その重要性と将来性を感じました。

 そこで、会場の園芸館の床に秋田産の天然アスファルトを(土瀝青)を使用し施工を試みましたが、作業員が不慣れであったため、誤って加熱中の天然アスファルトを燃え上がらせてしまいました。そのため、可燃性の材料を道路に使用するのは危険だという声が上がり、工事は中止となり日本初のアスファルト舗装は幻に終わったのでした。

(日本道路建設業協会技術政策等情報部会「道路舗装の誕生~明治時代」『道路建設』2020年9月号、69頁)

 

 

 燃えたので危険だからやめようという反応は思考が素朴・健康で面白い。当時の関係者の試行錯誤を想像する。

乳母がいて女官は死ぬ

高校のときだったと思うが、国語の古典の授業中にこんなことを先生に言われたのを覚えている。曰く、「女のひとって授乳期間中は月経が止まるのね、だからその間は妊娠しない。でも赤ちゃんを乳母に預けたら授乳しなくなるから月経が再開して、セックスしたらまた妊娠する。すると体力回復せずに妊娠をくり返すことになって、栄養状態が悪くなって死んでしまう」。

どのような教材の授業中だったか、どのような文脈であったかまでは覚えていない。おそらく平安期の宮中の女官が貴族の子を産むけれど早死にして…という流れで、その背景を説明したのだろう。

 

この話を覚えているのは、ひとつには教室で生徒がだれもニヤニヤしたり茶化したりしなかったことだ。それは先生の側が、無理な「構え」をつくらず普通にストレートに話したからで、生徒もそれをそのまま受け止めたということなのだろう。女性の先生で、30代ぐらいだったはずである。生徒を大人として扱ってくれているという感覚があったのを覚えている。

もうひとつは、平安時代の宮中の女官という特殊な立場ではあるけれど、女性の生命や存在が大事にされていない、しかもそれが男性貴族と女性、乳母という構造によって強いられていることに強い印象を受けたからだった。ひどく非対称的だと感じた。(当時は「構造的」とか「非対称的」といった語で理解していたわけではないけれど、いまの自分の語彙を当時の自分に持ち込んで当時の理解を言語化すると、こういう言い方になる)

 

いま思い返すと、小中高12年間において、この先生のこの一言はわたしが唯一受けた性教育だった。そしてまた、12年間において唯一受けたジェンダー/フェミニズムの教育だったとおもう。

クレー射撃と鳩

Wikipediaを読んでいたら、粘土製の皿を撃つ「クレー射撃」競技はもともと生きた鳩を使っていたと書いてあってちょっと衝撃を受けている。

 

クレー射撃(クレーしゃげき)とは、散弾銃を用いて、空中などを動くクレーと呼ばれる素焼きの皿を撃ち壊していくスポーツ競技[1]。

トラップやスキートなど、いくつかの種目に分かれており、それぞれの種目のルールも様々である。 クレーの形状は通常直径15 cmほどの円盤型で、投射機を用いてフライングディスクのように空中に射出したり、あるいは地面に転がす事で、射撃の標的とする。使用されるクレー(ピジョン。昔は文字通り、生きた鳩を放して標的としていた事にちなんでおり、現在においてもクレーが何らかの原因で射出されなかった時は『ノーバード』と称される)は、その名の通り粘土の焼き物でオレンジなど視認しやすい色で着色されている。 クレー射撃 - Wikipedia

 

生きてる鳩を集めて飛ばして撃っていたのだった。すげぇな、とおもった。ザンコクやね…

片付けとかどうしていたのだろうか。競技場の地面に鳩の死骸がぼたぼた落ちてたんだろうな。

わたしが真っ先に思ったのは、人類よりはるかに進んだ科学力を持った鳥型宇宙人が地球を支配したとき、このクレー射撃のことがバレたらヤバいんじゃないかということだった。

鳥型宇宙人たちは人間を使ってクレー射撃をするかもしれない。

 

鳥審判「次、アルファケンタウリ星系、山崎ピジョーン選手!射撃用意!標的放て!」

山崎ピジョーン「(スチャッ…)」

鳥係員「ほら次!人間、出ろ!走れ!」

人間標的A「ヒッ…!」

鳥係員「オラッ」(電撃ビリビリ棒で檻から叩き出す)

人間標的A「走る…!走って逃げ切れば…!」

山崎ピジョーン「レーザー銃ピキューン!!」

人間標的A「(脳が焦げる音と臭い)」

鳥審判「こめかみ貫通!これはS難易度だ、ポイント倍点!標的次!」

鳥係員「ほら次!出ろ!」

人間標的B「ヒッ…!」

 

クレー射撃では25回標的を撃つ機会があるという。国際大会などでは何十人か選手が出るはずで、その合計分だけ鳩を用意するのは大変だっただろうなとおもう。

カゴに、ばさばさぼさぼさと300羽とかの鳩が詰め込まれている。それを仕入れる係のひと、餌や水を与えるひと、放つ係のひと、撃つひとがいる。そして逃げた鳩もいれば、地にころがる鳩もいる。そういう風景を思い浮かべた。

 

逃げないという本能

  一昨日、ツイッターに投稿された動画。

 映っている範囲では、乗客が発煙しているバッグから1~2メートルぐらい距離をとって「見守っている」のが興味深い。

 

 このときの合理的な行動は、基本的に「できるだけ離れる」ことだろう。

 このバッグがさらに大量の煙を出すのか、炎を出して燃え始めるのか、このままの状態が続くのか、毒ガスを噴出するのか、この時点ではわからない。

 わからないなら、基本的に「とても危険」だと仮定して行動することが合理的である。つまりバッグからできるだけ距離を取って、乗客全員が少なくとも隣の車両まで移るといった行為である。(多数の乗客が隣の車両に殺到することで集団転倒が生じる危険は別個に考えねばならないが)

 その場合、距離を取る(隣の車両に移る)ことで支払うコストはきわめて小さい。ほぼゼロである。もしバッグが爆発すれば、移動していたことで大きな利益を得る。爆発しなくても損はしない。「ハズレなら0円、当たりなら5000円」のクジを0円で引けるなら、誰でもそのクジを引くはずだ。

 

 ところが実際には、遠ざかるのはぎりぎりの距離までである。なるほど1メートル離れることは、間近にいることよりもマシである。煙がさらに大きくなれば、動画に映るひともさらに離れるだろう。そのようにして、危険との距離を調整しようとする。しかし危険が自身の「調整」を上回ることもある。

 その場にとどまって危険なものの正体を見極めようとするより、危険かもしれないと仮定してさっさと行動するほうが良いはずだが、そうはしない。投機的な危機回避より現状認識を優先させてしまうようだ。見つめていること自体から利益は生じないのに。人間にはそのような性質が備わってしまっているのだろう。

 世の中のものごとの多くにおいては正体をきちんと見極めてから行動する方が利益が大きい。たとえば鍋の中の芋が煮えたかどうか、爪楊枝や箸を刺して確かめる。すでに煮えたと仮定して爪楊枝で刺さずに食べることも可能だが、賭けに負けると生煮えの芋を食べるはめになる。ほとんどの場合、確証を得てから行動に移るのは合理的である。

 ところが「危機」は鍋の芋と本質が異なる。危機が本当の危機であると確証を得たときにはすでに危機が現実化しており、見極めた者は爆発に巻き込まれている。たいていは爆発はおきず、目の前で危機はゼロに転じる。すると、見つめるということが危機を消失させたように勘違いしてしまう。しかし実際には、危機が現実の破壊をもたらすか見掛け倒しに終わるかは、観察者の態度に依存しない(消防士や爆弾処理班や外科医のように、危機に積極的に介入する場合は別である)。危機を鍋の芋と見誤ったとき、ひとはすでに危機の支配下にあり、逃げられない。当人は鍋の芋のように見つめることで危機を支配していると思っているのだが。

  すると問題は、「これは鍋の芋か、それとも投機的に行動すべき危機であるか」ということの判断にかかっている。それは難しい。たいていは見誤って、危機の観察を最後まで続けてしまう。「いや、これは鍋の芋じゃないんだよ!!」と言ってくれるひとがでてくるとようやく気づく。そう言ってくれるひとは良いひとだが、本当は鍋の芋にすぎないものを「危機だ!」と叫ぶひともいて、むずかしい。