しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

逃げないという本能

  一昨日、ツイッターに投稿された動画。

 映っている範囲では、乗客が発煙しているバッグから1~2メートルぐらい距離をとって「見守っている」のが興味深い。

 

 このときの合理的な行動は、基本的に「できるだけ離れる」ことだろう。

 このバッグがさらに大量の煙を出すのか、炎を出して燃え始めるのか、このままの状態が続くのか、毒ガスを噴出するのか、この時点ではわからない。

 わからないなら、基本的に「とても危険」だと仮定して行動することが合理的である。つまりバッグからできるだけ距離を取って、乗客全員が少なくとも隣の車両まで移るといった行為である。(多数の乗客が隣の車両に殺到することで集団転倒が生じる危険は別個に考えねばならないが)

 その場合、距離を取る(隣の車両に移る)ことで支払うコストはきわめて小さい。ほぼゼロである。もしバッグが爆発すれば、移動していたことで大きな利益を得る。爆発しなくても損はしない。「ハズレなら0円、当たりなら5000円」のクジを0円で引けるなら、誰でもそのクジを引くはずだ。

 

 ところが実際には、遠ざかるのはぎりぎりの距離までである。なるほど1メートル離れることは、間近にいることよりもマシである。煙がさらに大きくなれば、動画に映るひともさらに離れるだろう。そのようにして、危険との距離を調整しようとする。しかし危険が自身の「調整」を上回ることもある。

 その場にとどまって危険なものの正体を見極めようとするより、危険かもしれないと仮定してさっさと行動するほうが良いはずだが、そうはしない。投機的な危機回避より現状認識を優先させてしまうようだ。見つめていること自体から利益は生じないのに。人間にはそのような性質が備わってしまっているのだろう。

 世の中のものごとの多くにおいては正体をきちんと見極めてから行動する方が利益が大きい。たとえば鍋の中の芋が煮えたかどうか、爪楊枝や箸を刺して確かめる。すでに煮えたと仮定して爪楊枝で刺さずに食べることも可能だが、賭けに負けると生煮えの芋を食べるはめになる。ほとんどの場合、確証を得てから行動に移るのは合理的である。

 ところが「危機」は鍋の芋と本質が異なる。危機が本当の危機であると確証を得たときにはすでに危機が現実化しており、見極めた者は爆発に巻き込まれている。たいていは爆発はおきず、目の前で危機はゼロに転じる。すると、見つめるということが危機を消失させたように勘違いしてしまう。しかし実際には、危機が現実の破壊をもたらすか見掛け倒しに終わるかは、観察者の態度に依存しない(消防士や爆弾処理班や外科医のように、危機に積極的に介入する場合は別である)。危機を鍋の芋と見誤ったとき、ひとはすでに危機の支配下にあり、逃げられない。当人は鍋の芋のように見つめることで危機を支配していると思っているのだが。

  すると問題は、「これは鍋の芋か、それとも投機的に行動すべき危機であるか」ということの判断にかかっている。それは難しい。たいていは見誤って、危機の観察を最後まで続けてしまう。「いや、これは鍋の芋じゃないんだよ!!」と言ってくれるひとがでてくるとようやく気づく。そう言ってくれるひとは良いひとだが、本当は鍋の芋にすぎないものを「危機だ!」と叫ぶひともいて、むずかしい。