しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

危機感と「正常性バイアス」

これから国内で生じうる出来事のパターンを絞ってみる。まったく即物的なやり方として、ただ今般の災厄の、国内の死者の数だけを考えることとする。

 

すると、出来事の取りうるパターンはとても少ない。

(1)今日を限りとしてたちどころに感染症が終息し、現在入院しているひとも順次回復してゆく。死者数は80名以下で終わる。

(2)現在のペースから死者数がほとんど増えずに、じりじりと感染症が終息してゆく。仮に1日の死者数を3名として、100日間それが続くとする。死者数は約400名で終わる。

(3)死者数が漸増してゆくが、効果的な対策によりイタリアやスペインやアメリカほどには増えない。死者数は5000名ほどで終息する。

(4)上記の国と同じくらいに死者数が増える。数万人が亡くなる。

(5)底を割ったように被害が連鎖・拡大し、あるいは別種の災厄が同時に生じ、10万人から100万人が亡くなる。

 

1年後か2年後、わたしはこの文章を読み返す(生きていれば)。すると、5つの可能性のうちのどれかであったことを知ることになる。さらに思いもよらぬこと(第6の可能性)が起きるかもしれないけれど、それを言い当てることにあまり意味はないとおもう。

わたしは疫学や感染症の専門家ではないので、5つのどれに行きつく可能性が高いのかを推測することはできない。1は無さそうだし、5も無さそうだとおもうけれど、では2,3,4のどれになる割合が高いということもできない。ただ、2から5のいずれかになってしまうことは確実である。

 

それはどういうことなのだろう。なにが失われようとしているのだろうか。それは人命であるという答えが返ってくる。それは、そうだ。とはいえそれが意味することを自分は感じとることができているだろうか。明らかにそうではない。

 

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こうした状況において、国民が「危機感」を持つべきことが繰り返し言われている。この危機感という何かは捉え所がない。いちど危機感を抱くと、それを持っていないひとのことがよくわかる。自分が危機感を持つのがいかに遅かったかもよく自省できる。

ところが危機感は長続きしない。危機感にどことなく飽きてしまうか、擦り切れて寝込んでしまう。たしかに危機感によって世界の見え方がいったん更新される。けれども、いつまでたっても危機の本質が顕にならない。そのうち、いつのまにか危機感自体が平常になり、本質を捉えるための粘りや衝力を失っている。世界全体がのっぺりと「危機」に塗り込められ、相変わらず危機感を持たないひとには苛立ち、そして死者の数や現実の変化についての報道が網膜に転写されては消え去ってゆく。人間の精神は「活き活きとした危機感」を長時間保持できるようには作られていない。危機感がかたちのうえでは保たれたまま、いつのまにか中身が摩耗している。

 

危機感をいったん持つと、それを持っていないひとびとのすがたが「正常性バイアス」に陥っていることがよくわかる。しかし摩耗した危機感は、それが世界の見方を固定し、言動の創造性を奪うようになったなら、結局正常性バイアスがもたらす状態と変わりがない。「正常性バイアス」も危機感も世界の捉え方を一方向に固定する点では同じである。正常性バイアスは現在の持続を特徴とする。摩耗した危機感も、危機へ取り組む自分という現在をできるだけ持続させようとする。いずれも現実から微妙に遊離している。そうして、何かが失われようとしている。その「何か」は、なんなのだろうか。

 

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じぶんの基本の問いに立ち返ろう。現実とは何なのだろうか。それは少なくとも失われやすいもの、壊れやすいものである。

 

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現実と真実と事実はしばしば合致しない。それらを微妙にズラし合うことで、社会機構と自我は一日ずつの生活を続けることができる。しかし合致するタイミングが稀にある。それはたとえば、感情を高ぶらせることなく、しずかに悲しむことができるようなときである。イタリアやニューヨークでは、「死者数の増加の程度が低くなった」ということが喜ばれている。医療者への尊敬を大にする。その献身は爾後五百年語り継がれよとねがう。ところで、死者数の増加の程度が低くなるとは、いかなることなのか。ひとが死んでいる。ひとがたくさん死んでいる。ひとが昨日よりもたくさん死んでいる。ただ、一昨日から昨日への増え方よりは、増えていないということだ。つまり、ひとがたくさん死んでいる。そのことを、冷徹にでもなく、動揺でもなく、そのままに悲しむことができるだろうか。わたしは明らかにできていない。

 

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