しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

数字と災禍

 死者を数字で捉え始めると、その事件は災害になっているのだなと今回の新型肺炎を見聞きしていておもう。「災害」と言うと日本語では自然災害のことになるので、より広い種類の事件を含むものとして、災禍という語をさしあたり使うことにする。

 

 この点では、中国における新型肺炎は一つの災禍である。感染者数と死者数をまず認識するからだ。毎日3桁の死者数が報道されるさまはカミュの『ペスト』を思わせる。

 これに対して、日本の新型肺炎はまだ災禍ではない。感染者は日に日に報告され、亡くなられた方もおられるが、日本での死者数の報告が情報の冒頭に現れているわけではないからだ。現段階では、「70代の夫婦が」「初めて10代の感染者が」といったように、居住地域と年齢という大まかな表現ではあるけれど、あくまで個人の存在に視点を置いた報道や報告がなされている。

 

 中国の報道社や政府(またその報告を伝える各国の報道媒体)も、死者の存在を好んで数字で表したいと思っているわけではないだろう。病で苦しみ、亡くなっているのはあくまで名前と歴史と社会性を持った一人の人間である。どれだけ死者の数が増えようと、その原点の事実は決して変更されていない。しかしあるときを境にして、個々人の存在ではなく、まず数字が前面に出るようになる。そのとき事件は災禍になっている。

 

 数字で表すのは、一つにはその災禍の全体像を把握したいからだ。数字で、地図上のプロットで、グラフで表すことで、災禍の規模や動向が理解される。すると社会がその災禍に対する応答をいよいよ拡大する。国外からも救援物資が届いたりする。それはすでに亡くなってしまったひとには役立たないが、いまも苦境にあるひとの命を救うために絶対必要なことである。

 だから数字で表すことが悪だというのではない。ただ、そのとき個々人の存在は一挙に消える。今日までの総死者数が500人で、翌朝にその数が650人になったとき、その「差」である150という数字に含まれているひとりひとりの顔や名前や声はかき消える。

 実際のところ、「追いつかなくなる」という表現がより正確かもしれない。一人ずつの存在が重要だとアタマではわかっていても、昨日亡くなった100名の存在を一人ずつ確かめているうちに、きょうも150人が亡くなり、翌日も100人が亡くなり…と規模が押し寄せてゆく。人間の個人的な把握のキャパを超えた規模になる。人間のキャパを全く顧慮せずに現実が進展してゆく。そこに災禍ということの本質があるのかもしれない。

 

 しかし厳密には2つの選択肢があるはずなのだ。ひとつは数字で把握すること。もうひとつは、死者や苦境にある人の存在を、どれだけ追いつかなくても一人ずつ確かめてゆくこと。たとえば、もしテレビ局がこの方針で事件を報道したらどうなるだろうか。「武漢市で長年食料品店を営んでいたXX翁が73歳で亡くなった。かれは友人を多く持ち、商売は住民から信頼されていた。次に…」というように、一人ずつ一人ずつ紹介する。すると、一日あたりの死者数が、一日に報じることのできる数を上回ることになるだろう。全ての報道局や政府機関が同じ態度を取れば対応は麻痺してしまうだろう。けれども災禍にはならない。対応がさらに遅れて被害は拡大するが。

 

 現実には数字で把握しないことは不可能だ。選択ができるわけではない。そのように強制してくる、現実がそのように変容するのが、「災禍」の本質なのだろうとかんがえはじめている。

 

ペスト (新潮文庫)

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  • 作者:カミュ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック