しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

三宮の事故のことを思い出す

京都の放火事件の翌日、鳥取に出張に行った。行きの列車が予定より遅れたりして、同僚とわちゃわちゃしながら行った。楽しかった。そうして帰りの「スーパーはくと」の車内で、放火事件のことをすこしだけいろいろ考えていた。そのスタジオの作品はほとんど観たことないし、具体的な知り合いがいるわけではないけれども、わずかな衝撃は受ける。一人が亡くなる火事が一年のうちに30件起きていてもスルーしているのに、30名以上が一度に亡くなると大事件になる。そうはいっても、「せいぜいそんなものにすぎない」と片付けることもできない。ひどいな、悲しいな、とおもう。『SHIROBAKO』が好きで、疲れたときに何度も見返してきたのだけれど、なんとなくもうSHIROBAKOは見れないなと思ってしまう。劇中の「ムサニ」は実在の京アニではないし、関係ないのだけれど。劇中の宮守や太郎や興津さんは架空のキャラだけれど、かれらとは全然違った、けれども同じように自分のしごとをしていた「そのひと」が、とつぜん亡くなった。描いたり消したりできるキャラではなくて、現実の、体重と体温と声をもったひとが。

それにしても、うーん、33名…34名…重態が10名…などと数字を見ていると、なんなのだろう、どうしたことなのだろう、それはいったいどういうことなのだろう、取り消せないかな、と頭がぐるぐるする。

 

そうして「スーパーはくと」が三宮駅のホームにすべりこむとき、そういや春先にこの真下で市バスが暴走して若いひとが2名亡くなったよな、と思い出してびっくりした。忘れていた。今回の事件も来週や再来週には忘れてしまっているだろうか。