しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

3人のこども

 こどもがうまれた。先週の日曜日に妻の陣痛が始まり、月曜日にうまれて、おととい産院を退院した。妻とこどもとわたしで自宅のドアを開けるとき、「おかえり」なのか「いらっしゃい」なのか、どっちだろうと迷った。どちらでもなくて、重なっている。いらっしゃい、ここがきみの「おかえり」の場所なのだよ、ということだろうか。

 

 こどもがうまれるまで、そしてうまれてから、いろいろなことをかんがえた。そのなかでどうしてもきちんと思い出してきちんと書こうとおもったことがあるので順にかいてゆく。

 3つのエピソードというか、3人のこどもの話というか、直接は知らないこどもたち(そしてお母さんたち)のことである。「エピソード」としてまとめてよいとは思わないし、順番や人数でまとめてよいともおもわない。ただ、わたしの頭のなかで、この3つのことがなんども往き帰りしている。

 

 古い順から書くことにする。

 3年前、大学の先輩や後輩といっしょに石巻市周辺をまわった。地元の方の車に載せてもらって、お話を聞きながら立ち止まったり歩いたりした。その途中に旧大川小学校に立ち寄った。たしか3度目か4度目だった。さいしょにここを訪れたのは震災3年後のことで、そのときは、そこだけ時間がほぼ停止しているように感じた。それと比較すると、校舎周辺の風景がすこし整序され、この災厄の周囲にいるひとの時間がわずかずつわずかずつ進んでいるのかとおもった。

 一帯は静かで動きがほとんどなかったのだけれど、グラウンドだった場所のへりのあたりで、一台だけ中型のショベルカーが動いていた。ショベルカーは地面を掘り起こし、地中から出てきたものをショベルカーの周りで女性ひとりと若い男性ひとりが並べていた。

 そばに立ち寄ると、それは土がこびりついた自転車であったり、タイヤ片であったり、それらのかたちは生活の色味をなお濃くとどめていた。公共の復旧や建設工事にしてはこじんまりしていて(ショベルカーの操縦者を含めると3人だけ)、ふしぎな光景だった。がががっと工事を進めているようでもない。なにをされているんですか、とわたしは女性にきいた。行方不明者を捜索しています、とその女性は答えられた。いっしゅんお互いのことばが途絶えた間合いの厚みから、女性はさらに「娘をさがしています」とつづけた。旧大川小学校を遺構として保存することが決定され、こうした掘り返しが今後禁じられる。その直前の最後の機会として、旧大川小学校の敷地に含まれないエリアをこうして掘ってさがしているのだという。だから、この女性は津波でながされた娘さんのおかあさんということだった。

 ショベルカーを操縦している男性は、べつの行方不明者のお父さんだとも聞いた。それを聞いてはじめて、ショベルカーの「腕」の先の、土を掘ってすくう部分のうごきの意味がわかった気がした。こまやかなのだ。たしかに土に刃先を入れて掘り返すが、なにか出てくるたびに微細な操作で破片をひっかけ、持ち上げ、運転台を回転させてグラウンドの別の場所にそっと置く。震災から8年が経っている。行方不明者とは、全く有りていに言えば、遺骨であり衣服や持ち物の破片ということになる。がががっと掘り進める作業ではない。

 ショベルカーの動きをみると、ああ、あやしているんだな、と感じる。わたしが勝手にそのように思っただけなのだけれど、地中から出てきたものをそっとグラウンドに置き、刃先を引き、並べてゆく動きが、ちょうど赤ちゃんを畳のうえに寝転がせて、寝返りをしたりするのを父親の手のひらが支えて遊んであげているのと同じになっている。ショベルカーの金属の刃先が、子ども用の自転車のフレームをそっところんと動かす。響いている音は、ショベルカーの油圧のガチャ、ドドドッ、という動作音ばかりである。けれども、おとなの手とこどものからだが触れている、そのようなこまやかさが二重写しになってしまう。

 

 もうひとつ何度も思い起こしていたことは、昨年8月、千葉県で新型コロナウイルスに感染した妊婦さんが自宅で早産し、新生児が亡くなったという事件だった。引き裂かれたのだ、と感じた。このお母さんと赤ちゃんが生と死のあいだで引き裂かれてしまった。それはまた、医療崩壊のために、平時には機能したはずの社会の安全確保の仕組みからこの妊婦と胎児が引き裂かれていた、ということでもある。医療、警察、消防、軍隊、良識、地縁血縁、社会福祉など、わたしたちはさまざまな安全確保のシステムに包摂されている。平時にはそれらがそれなりに機能している。けれども、災害時にはこうしたシステムが機能不全に陥る。人間がばらばらに現実状況に放り出される。そこからサバイバルできるひとは少数である。引き裂かれて、助けが届かず、ひとりにしてしまった。社会がこのおかあさんをひとりにしてしまい、このおかあさんはこどもといっしょにいることができなくなった。

 実はわたしと妻も出産の3週間ほどまえにコロナに感染した。やはり真っ先に思い起こしたのがこの事件だった。けれども、神戸市の保健センターはきわめて有能で、妻の陽性が確定するとすぐ、出産予定の産院や感染妊産婦受け入れ病院と調整し、妻の体調を毎日電話で確認してくれた。感染した妊婦と胎児を絶対に守る、ひとりひとりの事態を必ずグリップするという強い意志を感じた。それはやはり、千葉県の事件を受けてのことだろうと想像した。

 幸い、私も妻も症状は悪化しなかった。妻は咳がしんどそうだったが、入院レベルには遠かった。咳がようやく収まったねと実感した日に陣痛が来て、無事にうまれた。だがこれは結果論にすぎないだろう。もっと悪化していたかもしれない。市内の指定の病院での帝王切開となっていたかもしれない。けれども、それは依然としてわたしたち家族が行政や医療システムから引き裂かれずにいる、ということである。わたしも、妻も、胎児も、ひとりにされていなかった。神戸市の保健師さんたちに守ってもらっていた。そのことの大元に、千葉県のおかあさんと亡くなったこどもがいる。

 そのことをどう考えたらいいのか。千葉県の事件を「教訓にした」からこそだ、と言うべきだろうか。たしかにこの事件以降、国内で同様の事例は聞かれない。しかし、そのように「教訓」として「役立った」と解釈して良いだろうか。その解釈によって、千葉県のおかあさんとこどものこと(ふたりが何重にも引きちぎられて、ひとりにしてしまったこと)を埋め合わせることはできないようにおもう。8月に千葉県でこどもが亡くなって、その結果、わたしたち家族の命が助かっている。それは、どういうことなのだろう。

 

 さいごに、ウクライナの病院が砲爆撃を受け妊婦が亡くなった、という報道記事を読んだ。帝王切開で胎児を取り出したが絶命しており、母親にも蘇生処置を続けたが亡くなったという内容だった。記事の日付から、この母子が亡くなったタイミングと、わたしと妻のあいだのこどもがうまれたタイミングが同じくらいではないかと推測した。この子はうまれて、生きている。ウクライナの「その子」はそうではない。いったい何がその差をつくっているのか。ウクライナのこの女性と胎児も、千葉のお母さんと亡くなった子どもも、大川小学校の行方不明者も、それがそのひとびとであってわたしたち家族でなかったことの根源的な理由はない。

 

 この3つの出来事、3人のこどものことが、しばらくあたまを往来している。

 かれらの死が、この子の生を贖うのではない。この子の生が、かれらの死を贖うのでもない。かといって無関係でもない。この子の生の、そのすこし向こうに、密着しているのではないけれど、かれらの存在がある。ひとりひとりの、名前をもった(持つはずだった)存在である。「だから、わたしは/わたしたちは/この子は、~~しなければならない」ということにはならない。このような「だから」は、その死者の尊厳を収奪するものだとおもう。

 わたしはこの3人のこどもと、この子の存在を結びつけて、そこから知恵や格律を引き出すことは決してしない。ただ、このようにかんがえている。毎秒毎秒の出来事がとりかえしがつかないものとして決定されてゆく。引き裂かれ、押し流され、叩き潰される。その決定は、打ち消そうとしてもいけないし、受け入れることもむずかしい。でも、そこに生をゆだねるのであれば、かれらの命が理不尽な決定によって寸断されたままであってはいけない。どうしたらいいのか、なにを求めればいいのか、まったくわからない。わからないけれど、この子の名前を呼ぶときは、そのすこし向こうにもかすかに届いてゆく、という根拠の無い感覚をたもっておこうとおもう。