しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

コロナとバブル

昨日まで1週間、調査のためアメリカにいた。

その間、故国における感染症の社会的状況は新しい段階に入っていた。

 

けさ、日用品の買い出しのためにスーパーに行くと、マスクとトイレットペーパーが売り切れだという張り紙があった。マスクはともかく、買い占め騒ぎがトイレットペーパーにまで広がるとは予期していなかった。そのようなニュースはアメリカにいる間にもネットで見ていたけれど、じぶんの地元のスーパーでその張り紙を見るのは驚きだった。

 

なぜトイレットペーパーの売り切れが起きるのだろうか。それは、人間が将来を予期する生き物であること、および他人の行動と自分の行動を区別できないことが原因なのだろう。たんじゅんに言えば、「『他のひとがトイレットペーパーを買うだろうから、じぶんも今のうちに買っておかねばならない』と他のひとが考えるだろうから、じぶんも買っておかねばならない」という心理がはたらくということである。他人の予期を推測したうえで、それをじぶんの予期と行動に組み込んでしまう。

この心理は「マスクが払底するならトイレットペーパーも払底するにちがいない」あるいは「感染症対策で経済が麻痺すればトイレットペーパーの生産が止まって在庫が無くなるにちがいない」という一般的な予測とは異なる。こうした予測だけでは社会現象としての買い占め騒動は生じない。2つの予測はいずれも合理性を欠く。製造や流通が麻痺する可能性はあるが、それならガソリンや自家発電機を買い込んだほうがマシである。単純な予測だけではトイレットペーパーを買うという行動に結びつかない。

ひとびとが群衆として動くのは、現実の状況をよく吟味して予測するのではなく、他人の行動を予期するからだ。現実を吟味することは精神に負担がかかる。他人に肩代わりさせたほうが良いという傾向がはたらく。ところがテレビを見ていると、専門家も言うことがけっこうバラけているように見えてくる。するとさらに肩代わり心理が悪化して、「他人はこの現実をどう吟味しているか」すら調べなくなり、「他人はどう行動するか」を予期しはじめる。すると、上述の「じぶんも買っておかねばならない」という嵌め込み構造にとらわれる。そしてスーパーに実際に行ってみて、たしかに売り切れになっているのでこの「予期」が間違っていなかったことに安心するのである。*1

 

現実認識を省いて他人の行動の動向に自分の行動を任せるという傾向性が経済活動に蔓延した事例がわが国にある。90年代のバブル景気である。上述の「トイレットペーパー」を「土地」に入れ替えれば良い。同じことをくりかえしている。

バブルの場合、「いま買っておかねば、濡れ手に粟のように現金や豪奢な生活が手に入る機会を逃す」という、蜃気楼を追うような欲望が上述の自己嵌め込み的心理に燃料を与え続けた。今回のコロナの場合、「いま買っておかねば、ウンチをしたあとお尻が拭けなくなるかもしれない」という、これまた蜃気楼を追うような危機感が燃料を補給している。バブル崩壊を経て、現在の日本の一般家庭のウォシュレット普及率が8割を超えているという事実は、この蜃気楼に勝てていない。現実よりも行動に重きを置くひとびとが多いということなのだろう。

*1:じぶんが買い出しに行ったのは調査旅行のため冷蔵庫が空っぽだったからで、トイレットペーパーは意識に無かったけれども、こうした心理が部分的にでも働いていたことはじゅうぶんありうる。わたしも群衆なのだということ。